ひさしぶり

 という訳じゃないけれども、まあとにかく帰省中。こっちに戻ってきたときに、なんとなしにほっと落ち着くことが2点。まず、バスの運転手の車内アナウンス。だいたい、京都のバスやらタクシーの運転手ってとにかく運転が荒いし。それを考えると、こっちはたとえ道が悪くても、なんだか、その運転手さんのアナウンスを聞いていると、やっぱ、こっちの方がいいよなあ・・・っておもってしまいますねえ。
 もう一つは「なにするとー?」とか。久しぶりに聞くと結構感動するかも。自分は関西圏でもふつうに使っているような気がしなくもないけれど、それが違和感なしに使われているのはいい感じですね。ほんとに。ほっとします。

 さてさて、今回のメインイベントである研究会での講演ですが、まあ、なにしろ発表練習とか全くしていなかったこともあって、発表のでき自体はいまいちでしたが、これを糧に修論発表までしっかり持ち込めるようにしておきましょうか。というか、来週中間(でもないですね、この時期になったら)報告みたいなのもあるから、今日の原稿を再編集しないといけないんですが。この福岡在中にがんばろうかな。
 そうそう、アインとの再会もいい感じで。というかやっぱりかなりの熱烈歓迎を受けてしまって、うれしい悲鳴ですね。あいにくの雨模様で散歩日和な日がやってくるのかは微妙なんですが、是非とも天気回復して、楽しく散歩したいなあ、とか思ったりする今日この頃です。

能楽観賞会

 こういうのを大学側が執り行ってくれるというのはいいことだと思います。ほんとに。6月の創立記念日にあわせた演奏会といい。特に今日のは、日本の伝統文化に触れる、という意味でもいいことかな、と。で、行ってきたわけです。狂言や能って一応高校時代に1回だけみたことがある(狂言はもっと見てるかも)わけなんですが、能はずいぶんと睡魔と戦っていたことだけ記憶にあります。なんで、今日はちゃんとみたいな、と。
 やっぱり、狂言はずいぶんと親しみやすいですよね。話の内容も分かりやすいし、多分、事前に解説なんかを読んでいないとしても、笑い所ではちゃんと笑えることでしょう。だけども、能のほうは・・・やっぱり、僕らって、ああいう文化に簡単には慣れ親しめないような、そんな生活をしてますよねえ、って思います。静けさであったり、非常にゆったりとした時間の流れであったり、それこそほんのわずかな仕草であったり。舞台っていえば、テンポよく進むもんだったり、音楽がいいてもそれは派手だったり、とかそういう感じで。
 今回の演目は「鉢木」というやつで、それこそ道徳の教科書にでも載ってたんじゃないかっていうお話でした。文章にしたら、多分読むのに10分もかからないでしょう。日本昔話、とかいう感じにしてしまえば、それでも15分くらいのお話になるかと。それを2時間近くかけて演じるわけだから、そこら辺の感覚っていうものが、もうすでに僕の中には乏しいかも。例えば、歌劇とかオペラとかにしたらそれこそ2時間くらいなんていうのはほとんどありえないほどに短い部類に入ると思いますけども、それはもともとの話もずっと長いから、それでもまあ僕にとっては大丈夫なわけですが・・・次どうなるのかな?と考える、といいますか、だいたいゆっくり進むもんだから、次はこうなるはずだけどなかなかそこまで進まないなあ、とかそんなことを思ってしまうほど。いかんですねえ。そういう意味では、これこそが僕にとっては異文化ですよね。自国の伝統文化なのに。
 ま、それと、解説にもあったんですが、舞いとか、そういう類いのものは一切ない、そういう演目だったこともあったんだろうな、と。だから淡々と話が進んでいるようでしたし。そこら辺が初心者的には、入門編としてはあまり適してなかったのでは、と思ったり。ま、いいか。
 そんな感じだから、なんか、やっぱり他人のマナーの悪さについ気をとられてしまったり・・・(目の前だったしなあ)・・・いやいや、まあ、結論的には、いい経験でした、とまとめておきましょう。
 で、明日から、地元の大学でおこなわれる研究会に出席するために、実家に一時帰省です。

時間

 世の中、というか特に研究者、というかほんとに限定すればうちの研究室の人々、はだいたい2種類の時間感覚をもつぐループに分類されると思います。つまりこういうこと。
 ある時刻にあるイベントが実行される、という予定が存在したときに、その時刻になる瞬間にはもうすでに実行されるべきイベントについての準備が整っている状態と、その時刻になった瞬間あるいはその時刻以降にそのイベントについての準備をはじめる状態。わかります?簡単にいいますと、1時からゼミがあるとしたときに、1時にはすでにゼミ室の中の自分の席についてノートやらの準備も完全に整っている状態と、1時になったときにゼミ室に向かう準備をはじめる状態、という感じで。おそらく、社会的に見ても、っていうかそんな大がかりじゃなくても、前者が本来あるべき状態ですよね。会社とかだったら絶対そうでしょうし、普通、なにかしらの共同体においてはそうあるべきはずだと思ったりするわけなんですが・・・で、ちなみに僕は前者です。いつでも、どんな場合でも。予定時刻より前にそこにいて、予定時刻に起こるべきイベントには必ず前もってそなえておく、というのがいわば信条みたいなもんで。なんですが、おおよそ、うちの研究室の他の人々は後者です。ここに認識の差が・・・
 そうはいっても、はっきりいって僕のほうが圧倒的に少数派(ざっと1:10くらい?)なんで、かなりの割合でいつも時間的には損をしている気分です。時間通りに行ったのに誰もいない、というのはいつものことだったりするわけです。2年目にして、ようやくそういう状況にも慣れてきたのか、意識的に、時間通りには行動しないように勤めたりという涙ぐましい努力があったりもするわけですが、やっぱり頭の奥では、おかしいよなあ。という気持ちもぬぐい去ることはできませんで。。。いやいや、じゃあ、みんなに言ったらいいじゃないの?というご意見もあろうことかと思いますけどね、実際のところ、今のような状況で、たまに損な気分を味わっているのって、僕だけだと思うんですよね。なんで、まあ、しゃーないかな、と。
 一言で言ってしまえば、研究者だからなんだろうな、と偏見的には思います。しかも、理系で、理論系。そもそもが自由な雰囲気で、時間の束縛なんかどこにもなさそうだし、やっぱり、しゃーないんでしょうね。とはいえ、僕にはそういう人々の感覚はほぼまったく理解できませんが・・・それもまた気にしない気にしない。

演奏会三昧っぽい

 あくまでも「ぽい」というところなんですが、としても2日連続で演奏会に行ってれば、そういうもんですかね。10〜11月というのは、プロの演奏会シーズンという感じなのですが、12〜1月はアマチュアの演奏会シーズンというところでしょうかね。だいたい年に2回の演奏会をしようとすれば、6月頃と12月頃というのが定番になっておりますようで。(といいつつも、半分所属しているような気がする大阪市民管は3月頃と9月頃だけど)今月に入ってすでに、2つのオケの定演(つまり先週と今週)を聴きに行ったりしているわけで、まあ、そういう意味では「ぽい」はいらんな、とか。
 と、こういうふうになっているのにもいくつか理由がありまして、なにより、すべての演奏会はタダで行っているとか、それは大きいかな、と。(チケットくださった方々どうもです)ホール自体も京都のいつも行っているホールだと自転車で20分くらいなのですが、普段はそこであまり演奏していないオケもそこで演奏したりするんで、おかげで演奏会に行く、ということ自体にほとんど障害がないというか、そんなふうでありまして。おかげで音楽に充ち満ちた週末を送っている次第です。優雅なもんだ。
 演奏会に聴きに行くときは、いくつかの運が試されます。多分。例えば、座った席の付近のお客さんが演奏中に音を立てるかどうか、とか、そもそも自由席の場合は好きな席に座れるかどうか、とかそういうのもありますが、今日みたいな曲の場合は、あと、演奏終了後の拍手のなるタイミングとかそういうのも運ですねえ。そういう点では今日のは比較的よかったほう。席の問題とかそういうのはまったく問題なかったんですが、なにしろ上の階の席に座ったんで、下の階の客席の様子もなぜか自然と目に入ってしまって、そんな中で動きがあろうものなら、若干ながらに神経がそっちに奪われてしまうんですよね。というか、終楽章がはじまった時点で客席に入ってくるお客さん(しかも、曲は始まっているのにずいぶんと前の方まで歩いていった)とか、曲がまだ終わっていないのに途中でホールをでていくお客さん(わざわざ立ち上がってコートを着てからでていった)とか、そういうのはどうかって思うんですよ。まったく。僕がそういうのを気にしてしまうのがいけないんでしょうけども、そこには普通ならあるはずのない出来事が起こっていると、なぜか無意識のうちに気を取られてしまうようで、それはそれで困ったものです。演奏している立場の時でもあるんですよね。他人に起こった事故なのに、当人よりも動揺してしまうとか・・・
 来週はさすがにないなあ、とか思っていたけど、よく考えたら、実家のほうで・・・

献血日記と大雪

 いつもは頑張って2週間ごとにいっていたんですが、ちょっとその頑張りも減少しつつ。といいますのも、この間この1年間の献血回数を数えてみたら、今年度(正確には来年の4月末だけど)にできる献血の回数は最大でも5回、今のペースだと3回なんですよね、ということが発覚しまして。というのも、成分献血にも2種類ありまして、血漿と血小板があるんですが、血漿だと年間24回なのに対して、血小板は血漿の場合の2回分に相当するとか、そういうややこしい話もありまして、血漿の回数に換算するとすでに19回分していることになっていたわけです。なので、あと4ヶ月間くらいの間に最高でも5回しかできないんだったら、そんなに頑張って2週間おきに行かないほうが、むしろ「最近献血してないな〜したいな〜」とか思わずにすむかな、と。
 ちなみに、今日いきますと、いつの間にやらずいぶんと看護婦さんの顔触れが変わってまして、ちょっとびっくり。見たことのない看護婦さんに針を刺されたりするのはちょっとドキドキしたり。痛いかな?とか。でもそんなことはなかったですけどね。にしても、献血終了時に針を抜くときの、あのなんとも言えない感触はほんとになんとも言えないですねえ。あ、今日は血漿のほうだったんで、あと4回分ですかね。年末ぎりぎり(31日)に行こうか、それとも年明け直後(2日)に行こうか、とかそんなしょーもないことを悩み中です。
 で、今日は「大雪」。「たいせつ」です。前回(小雪)同様に「おおゆき」ではないのであしからず。本格的に冬の到来だとか、そういう感じで、ちょうど今日は最近の異様な穏やかさとは変わって、冷たい雨が降ったこともあって、冬っぽい。とはいっても、あれで10度きってるんですねえ。とか思ってしまったけど。雨のせいで逆に湿度があって、寒さを感じなかったのだろうか?冷たい風がなんと心地よかったことでしょう、と。
 雨のせいで若干機動力が落ちてしまって、なんともですね。せっかくの週末で、演奏会とかあるのになあ・・・

紫を食するとか

 質問です。紫色の食べ物って何か思い付きますか?と。いや、当然といいますか、紫イモ、以外ってことで。ひょんなところから、というほどのもんじゃないけど、林檎を手にしたので、またサツマイモの林檎煮でもしようかな、と思ってスーパーに行くと、サツマイモの横に紫イモが置いてあって、思わず買ったわけですよ。まあ、調理方法はまったくおんなじで。一緒に煮るだけ、っていう難しくもなんともなくて、ただ時間が若干かかかるだけ。それはそれでいいんですが、出来上がったものって、やっぱり、紫一色なんですよね・・・これってどうなんだろう?いや、もちろん、味は問題なし。っていうかおいしいんですが、紫色っていうのは、必ずしも食欲をそそる色彩はもってないですよね。それもドテッという感じの原色紫だし。
 よくある話だけど、こういう色の食材を最初に採用した人はすごいなって思いますけどねえ。だいたい、イモかどうかもわからんぞ。見た目だけじゃ。で、知らなかったんですが、紫イモって、外側は白っぽいんですよね。で、切ってみると、生の状態から、もう中身は紫一色。そうだろう、って知っていても、ちょっとうわって思ったり。いやいや、おいしいって知ってるから、別にそこでひるんだりとかそういうことも一切ないんですが、出来上がったものをみているだけで、ほんと、この食材を採用した人はすごいなあ、と関心せざるをえませんねえ。紫だし。
 さて、紫色の話はさておいて、あれからちょうどまた1月経って、今日は旧暦の3日。というわけで、夕暮れ時にはきれいな三日月が見える可能性があるわけでした。でも、今日はなんだか曇り空だし、調子悪いなあ、とか思って、研究室をでたときも、ぶらっとまわりを見渡して、やっぱり見えないかあ、とか思いつつも、山を登って家路についたわけです。そしたら、目の前に、なんとも不気味?な感じといいますか、黒雲に完全に支配されつつも、その中でしっかりと輝く三日月がいるではないですか。しっかりと、といっても、かなり輝きは失われているようではありましたが、しかしそれでも、満足満足。ちなみに、月齢でいうと2くらいでした。ほんと、今の時期しか見ることはできないでしょうね。もう月末には冬至だし。

活字中毒その後

 そういえば、と、まあ、誰も覚えてないでしょうが、急性活字中毒のその後。もはや、急性ではなくなってしまってますけども。
 しばらくのあいだは、ちょっと小説系からは離れている時期もあって、音楽関係の、伝記モドキみたいなやつだとか、評論みたいなやつとかを結構読みあさっておりました。が、思い出したかのように、再び、中毒の発端のほうへと立ち返ってきまして、先日、当初の目的はほとんど達成してしまったんですよね。「ほとんど」といいますのも、まあ、栗本薫の伊集院大介シリーズは少なくとも図書館で手に入る分については全部読んでしまったんですが、ここ数年のものは数冊手付かずのまま(というか、どっかで買うなりしないといけないわけなんで)でして、あと、村上春樹のほうも小説はあと1作品を残して全部読んでしまったのは読んでしまったんだけども、その、あと1作品がねえ、、、なかなか図書館に戻ってこなくて、というわけでして、だから「ほとんど」。図書館で本を借りて、それが結構人気のあるものだってわかっている上(つまり、その借りた本人も、その本を借りるまでには、それなりに待ったはず)で、もうすでに2ヶ月以上延滞(しかも、夏休みの長期貸し出しも含んでいたから、実質3〜4ヶ月借りっ放し)しているんですけど・・・というのもどうかと思うんですが、回収能力に欠ける図書館もどうなんでしょうねえ。ま、いいけど。実家に帰れば、その本は置いてあるはずなんで、来週帰省したときに読むことにしましょう、と。
 さて、ちょっと栗本薫の本のお話。僕は、あまり最近のよく出回っている推理小説とかを読んでない(今までに読んだのって、ドイル、クリスティー、それから乱歩に栗本薫・・・偏ってる)ので、なんともいえないんですけども、昨今のサスペンスドラマを横目で見ている感じにおいては、ありきたりの犯人の生い立ち、動機にはじまって、トリックといいますか、その辺が結局メインなのか?というものばかりなような。いやいや、推理小説っていうのは、そういうものなんだと思ってはいるんですが、にしてもよくここまで同じようなものが氾濫しているよなあ、という印象をぬぐい去ることはできません。(まったくの偏見なんで、「それは違うぞ!」という方がおられましたらご勘弁を)なんですが、彼女の本を読んでいると、それだけじゃないものをたくさん感じてしまって、こういう作品も存在し得るんだなあ、とちょっと発見。多分、こんな雰囲気の推理系の小説って他にもいろいろ書いている人がいるんだとは思いますけどね。ま、社会問題的な面が多いっていうだけかもしれんので、そういう意味では、もしかしたら、最近はそういう風潮があるのかもしれません。そりゃあ、いろんな事件が単なる1つの事件としてではなくて、大きな社会問題になってますからね。(といっても、あまりにいろんなことが起こり過ぎて、すべてはすぐに忘却の彼方に散ってしまうんですよねえ・・・)
 読むものが無くなってしまうと、やっぱり手持ち無沙汰なのはあいかわらず。でも、なんでもいいから読みたい、っていうほどの勢いはないので、まあぼちぼちと。だいたい、そんなことにたくさん時間を費やしている場合ではないような気がする今日この頃ですから。来週は研究会で発表だしなあ。

クリスマスに向けて

 とかいってみる。いやいや、別にキリスト教だとか、そうじゃないとか、そういうどーでもいい議論はほんとにどーでもいいんで、純粋に一つのイベントとして考えております。季節モノですから。(ちなみに、クリスマス礼拝とかも行ったことはあります。1回だけだけど)
 季節モノなんで、やっぱりふさわしいもの、と、今までは、まあゲーリー・カーのクリスマス音楽特集であるとか、あとはバッハのクリスマス・オラトリオだとか、バロック以前の宗教合唱曲なんかが、この日に向けてわが家の中ではよく鳴り響いているわけですが、今年はさらに、ヘンデルの「メサイア」が聴きたいなあ、とかそういうふうに思ったわけです。もちろん全曲もの。ここら辺も福岡にいる間に図書館でCD借りて、手に入れておけばよかったですねえ、というのも、あの頃に、自分がこういう音楽(ミサ曲系とかオラトリオみたいなのとか)にちゃんと興味を持つと思っていなかったというか、先見の明はなかったなあ、とそういう感じです。同じくバッハのヨハネとかまでは一応持ってるんですけどね。あとは、マタイと、ハイドンの「天地創造」とか、そういうのもいずれは欲しい。
 そんなわけで、早速CD屋さんに物色に行きました。といっても、もう演奏者の組み合わせは、アーノンクール&C.M.Wと決まっていたので、探すのは簡単だったのです。そして、見つからないときもあきらめるのは簡単・・・なんでないのよ・・・天地創造とかもなかったし。一応マタイはあったけど、今は特には欲しくなかったので却下。
 そういやあ、「くるみ割り」もありだなあ、とか思ったりして、全曲版を物色したりもしたんですが、どうもそこまで気乗りはしなかったので、結局今日はあきらめです。ちょっと、別の(これも今日のお目当てではあったんで)は買ったけど。
 クリスマスに「メサイア」を聴く計画は果たして成功するんですかねえ・・・それまでにどっかで見つかるといいけどなあ。なにしろ、この時期を逃すと、また、別にそこまでして聴かなくても、という気持ちが出てくるかもしれませんし。
 ここ数日は、なんだかちょっと妙に穏やかな日が続いていますけど、週間予報を見るとマイナスの文字は見えてくるし、油断はならないとか、そういう感じ。旧暦でも霜月になりましたしね。ま、インクジェット用年賀はがきも手に入れて、とりあえず、年末に向けての準備は着々と。

偏見

 思えば、なんと多くの「偏見」に満ちた生活を送っているんだろうなあ、と。もちろん、大きなものから、小さなものまで、その「偏見」にも様々あるわけですけれども。この「独り言」でもよく「偏見かもしれませんけど」のような言い回しがあったりするわけで、でも、自分でそういっているうちはまだ大丈夫なんでしょうけどねえ。気がつかない「偏見」もそれこそ無数に内在していることでしょう。
 そもそも、なにか物事を知る、ということになれば、必ずそこに「偏見」の芽みたいなものが付随してくるわけで、それがそのあとどうなっていくかは、もちろんその物事自体にもよってますし、僕自身の受け取り方にも、そしてその他大勢の人の受け取り方にもよっているわけなんですよね。なにも知らなければそこには「偏見」なんてものは生まれ出てくるはずもないし、そういやあ遥か太古の人が「無知の知」なんてことをいっていたような、そんな気がしなくもないわけですが、(しかも、全然見当はずれの引用な気がしなくもないわけですが、それはさておき)この現代において、情報・知識そのものが価値があるともいわれるような時代ですから、まあ知識を得る、という行為自体を否定するわけにもいきますまい。
 「偏見」と「常識」っていえば、多分表裏一体のもの(正確にいうと、「偏見」の逆は「常識」の部分集合かな?)で、これこそまさに紙一重の違い、かと思うんですが、ようは、自分がmajorityに属しているかminorityに属しているか、どっちなんだ?っていうことですよね。実際のところは、「圧倒的」っていう接頭詞がつくとは思うけど。大した差がなければ、それらの見方は単なる「人それぞれ」ってことだから。といったものの、結局「偏見」も「常識」も「人それぞれ」には違いなかったり。
 いやいや、まあ、大きな話をするのはやめておくことにしましょう。わけわからんし。あ、まいどのことながら「偏見」=「かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき、客観的根拠がないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、またそれにともなう感情」らしいです。これを読むと、対人に対してのみに使うのかな?と思ったんですが、どうなんでしょう?物事に対しては「偏見」っていわないのかな?
 さて、当然のことながら、自分で受動的に「偏見」に気づくわけもなく、ある程度は能動的に「偏見」を無くそうとか、思ってないといけないんでしょうね。とはいえ、なんだか「偏見」が存在しないことがいいのか、といわれると、それはどうなんだろう?と思ってしまうのはいけないことなんでしょうか?どっちにせよ、自分に対する「偏見」はそれなりになくなっていただいたほうがよいでしょうが。だいたい、自分も自分に「偏見」を持っているかもしれないし。そもそも自分自身に対する「客観的根拠」ってなんなのよ?ってことで。
 そんな感じで、やっぱりこの文章も「偏見」に満ちあふれているような気がしてならない、というか満ちあふれてますねえ。

吃逆さん

 昨日の夜、久しぶりにあらわれてくれました。吃逆さん。ま、久しぶりっていっても、当然そこには感慨深い思いとかそういうものは一切あるはずがなくて。「なんでいきなりなん?」という感じ。(いや、もちろん、こういうものって「いきなり」なのが当たり前なんですけどね、そういう細かいことは無視することにしまして)
 あれって、かなり困りますよねえ。ほんと、いきなりあらわれるし、規則正しいのかランダムなのかわからないリズムを刻んでくれるし。当然、それを自分の胸のうちだけにとどめておくことなんてできるわけもないし。
 まあ、そういう感じで、突然(だから、吃逆は「突然」あらわれるものだ、とかいうのももちろん無視)あらわれた吃逆さん。たしか、寝る前になると、気がつくといつの間にやらおさまっていて(だいたい、そうですよね。気がつくとおさまってることが多い)、もうそれがあらわれたことすら記憶の彼方で塵と化してしまうはずだったんですけどねえ。今朝起きたときまでは大丈夫だったのに・・・というわけで、朝、気持ち良く目覚めて、身支度なんかをしていると、またまた突然あらわれてくれましたり。もう、なんていうか最低だ。パソコンのまで作業している間も、ずっと、そのなんともいえないリズムで僕の思考はかき乱されるし。でも、それもそんなに長くは続かなかったようで、昼ご飯の時くらいにはやんでいたみたい。これも、昼ご飯を食べて、家を出たときに、「あれ?そういえば、いつの間にかとまってるよなあ・・・」と思ったくらいだったから。が、しかし、そう思ったのも束の間、次の瞬間に、再発してるし・・・もう、なんなん?!
 そんなこんなで、研究室にいる間も、ずっと1人苦しみながら、モノを考えようにもその変なリズムに惑わされてちっともうまくはいかない。いろいろ、吃逆さんを僕の中から追い出す努力もしてみたりしたんですが、それらはすべて儚く終わってしまったり。結果的には、またまたいつの間にやら消えてましたけども・・・もう、なんだかなあ・・・
 あ、ちなみに吃逆とは「横隔膜の不随意性の痙攣のため、吸気時に声門が突然開いて特殊な音声が出る状態」だそうです。んでもって、「しゃっくりのとめかた」とかいう、こういうサイトも探してしまった。http://www.ne.jp/asahi/comix/mokichi/shakkuri/もっとたくさんあるみたいですねえ。みんな考えることはおんなじなのか・・・そして、絶対的な止め方が存在しないのも、ある意味自明の理。ま、そんなもんなんかなあ・・・