自転車のりながら

 自転車をこぐ、という動作はもちろん、移動のための手段の1つであるわけなんですが、自転車に乗っている間に、人がただ足を動かしてこいでいるだけかっていうとそうでもないですよね。いや、もちろん、表面に出てこないところではいろいろなことがおこっているのかもしれませんが、表面に出てこないので、見た目にはわからないから、そういう話はおいておくとしまして。
 例えば、非常によくありがちなのが、僕もやってますが、音楽を聴く、とか。ま、これはたしかに、まわりの音が聞こえにくくなったりすることもあって、それはそれで若干危険なのかもしれませんが、そんなこといっても、少なくとも僕の場合は、車が近づいてくる音が聞こえなくなるほどの音量で聴いているわけじゃないんで、まあ、気にせずに。
 他にといえば、携帯電話系。電話で話しをする、メールを送る、とか。たまにそういう機会があったりするんですが、少なくとも僕にとって、これらの動作は危険なものです。必ず、自転車止めますね。電話を取り出して、耳に持って行くとか、画面に表示された情報を見るとか、そういう一連の動作が、かなり自転車自体のバランスに影響しますから。そういう意味では、車に乗っているときのほうが、まだ危険は少ない。ま、車の時は、そもそも、留守電モードなんで、誰からの着信が見るだけで、受け答えることはないですね。
 あとは、と、飲食系ですね。まあ、たとえば、パンとかの類いをかじるとか、ペットボトルのお茶を飲むとか、それくらいだったら、別に気にもならないし、まあ、自分でもするかなあ、とか思います。見た目には行儀悪いかもしれません、っていうか、悪いんでしょう。そうそう、たばこはやめて欲しいけど。ほんと、あたったら危ないって。
 さてさて、これらのことって、結構日常的に目にする光景だと思うんですが、たまに、すれ違って、え?そんなことまでわざわざしなくて・・・って思うことがあります。もう、ほんとにびっくり。それぞれ今までに1回しか遭遇したことないですけどね。「本を読む」「カップラーメンを食べる」う〜ん。前者は純粋に危険です。だいたいふらふらしてたし。その意図が全然分からんし。後者もなんだか意味不明。急いで移動しないといけないけど、お腹もすいた、といいますか、だったら、もっと食べやすいものにしたらいいのに・・・と。あ、カップ麺の場合は、容器自体はカゴの中に置いてたような。だいたい、こぼれますよ、あれは。すれ違っただけなんで、一瞬目を疑ったけども、まあその間に相手は遥か後方に、って感じでしたけどねえ。しかし、世の中にはいろんな人がいるもんだ。
 もう11月も終わり。ほんと、年末ですねえ・・・

記念写真

 今日もかばんに借りた本を詰め込んで、図書館に行っておりますと、もうすっかり冬突入で京都の観光シーズンも、ちょっとだけオフかな?とか勝手に思っていたんですが、実際そんなことは全然なかったようで、図書館近辺の名所といわれるところには、やっぱりたくさんの人がおりました。そして、たいがい団体さんはアジア系が多い。いつもながら、人力車のにーちゃんには関心しますよ、って別に僕に関心してもらっても仕方ないんですが。
 さておき、観光名所にありがちな光景として、記念写真というものがあるわけですが、いつも思うんだけども、なにかしら名所と呼ばれるような建造物なんかをバックに自分の写真を撮ることの意味がよくわからなかったり。いや、別に、撮りたい人は撮ってもらっても構わないわけですし、そんな、人のことに口を出したりとか、そういうんじゃないんですけども、ただ、僕はそういう写真が欲しいっていうふうには思わないんだよなあ、と。少なくとも、自分の思い出としての記録にはならんですねえ。
 自分を含む人物を撮ることに否定的なのではなくて、観光地で自分の姿をわざわざ(それこそ場合によっては、通りすがりの他人に撮影を頼んだりするわけで)写真におさめる必要があるのかな、と。自分の記憶というよりは、人に見せるための記録といいますか、そういう感じ。だって、自分が撮った写真は、自分が写っていなくても、それはまぎれもなく自分が撮った写真なんだから、その画面に自分がいるいないに関わらず、その写真を見ることで、自分がそこにいたという記憶は簡単に蘇ってくると思うのですよ。それこそ、他人に対しての「こんなところにいったのよ」的な証拠でない限りは。
 って、まあ、たかだか20数年の人生を送ったに過ぎない上に、そういう記録を残し出して、まだ1〜2年程度だからそういうことがいえるのかもしれないんですけどねえ。もっともっと記録自体が膨大になってくると、曖昧になってくるのかもしれません。といっても、それ自体、別に、その写真に自分が写っているかどうかは関係ないけど。いやいや、これは、写真に自分が入る必要がない、という理由にはなってるけど、入ってはいけない、という理由じゃないな。。。だから・・・
 そうそう、大事なことなんですが、そもそも、その風景に、例えば自分が入っていることで、なにかしら、その風景そのものの本質的な部分が損なわれているような気がしてしまうんですよ。多分。名にしろ、背景そのものはもとからあるものかもしれないし、そこを通り過ぎていく人々も別に仕組まれたものじゃないんだけども、その中に立ってカメラのほうを向く自分がいたとしたら、それはただの作り物になってしまうから。自分が下手くそに作り上げた風景になってしまうから。それが嫌なんでしょうね。(もちろん、自分や人物メインの写真とかなら、構わないんでしょう。そういう意味で)
 最近、書きながら、結論がまとまってないことが多いような気分。読み直してみると、たしかによくわからん構造になってしまってる。でも、なおせなくて、ね。なんだか部分修復は不可能で、現状維持か、破棄、しかないような感じなんで、現状維持をいつも選択しているわけです。ご了承くださいな。
 昨日に引き続き、今日の新開封珈琲はコロンビアのエメラルドマウンテンでした。昨日のとあわせて、しばらくはこの2種類で。

ゴミだしと自宅で作業

 たしか、夏を過ぎたころだったと思うのですが、ゴミの回収日が変更になりました。それ自体はたいした問題ではなかったのですけれども、おそらく回収車の都合やらなにやらで、回収の時間も変わったんですよね。今までは、「ゴミは8時までに出しましょう」「前の晩から出すのはやめましょう」といった張り紙がしてありまして、特に後者はカラスとかネコとかによるゴミあさりの被害のことを考えて、ということだと思うんですが、まあ、近所のみなさんおおむねちゃんとそういった道徳的ルールに従っていたようで、僕も当然その通りに、と。とはいえ、毎朝8時起床の僕にとっては、これがいつも結構ぎりぎりだったみたいで、回収車は9時までには来ているようだったので、朝起きてから、学校に向けて家を出るまでの時間のあいだに一度は家を出てゴミを出しにいかねばならない、といったそういう状況だったのです。ややめんどい。
 しかし、それが、回収日が変更になると同時に、状況が変わってしまいました。気がつけば、登校時間の9時やら9時過ぎになっても、普通にゴミ回収場所にはゴミの山が存在していまして、まあ、僕的には学校に行くときに一緒にゴミを持ってでればいいし、それだと、ゴミを出し忘れることもなくなって非常に大助かりだったんですよ。ただ、そこにはちょっとした落とし穴がありまして、っていうか、回収時刻がちょっとくらい遅めになるのはいいとは思うんですが、12時過ぎまで、ゴミの山が普通に存在しっぱなしっていうのはどうなんでしょう?午前中ずっと、そこにはゴミ山があったりするわけで、カラスとかネコとかに荒らされないように、という先程の後者の張り紙はかなり意味を失ってるような・・・いやいや、だいたい、ゴミの回収って、夜間か、そうでなくても、朝っていうのが定番だと思うんですけどね。昼過ぎっていうのはどうか、と。だいたい臭う。ただでさえ臭うのに、ずっとそこにおかれていると、さぞかし目の前の家の人は困ってるだろうな、とかちょっと人事だけども気になってしまったり。いいんですかね>役所さん
 以前から何度か「研究は家には持ち帰らない」ということを書いていたと思いつつも、そういや「そもそも学校に行かない」というのもありなんだ、とか思ったり。いやいや、詳しくいいますとですね、研究をプレゼンする機会がだんだん多くなってきたりしてまして、そうすると、プレゼン用の資料を作ったりするわけですが、これがまた、なぜか、あれだけたくさんパソコンはあるというのに、共用のWindows機は1台しかないのですよ。うちの研究室には。(当然、Macなんて、僕が個人所有しているだけ)なんで、例のメジャーなパワーポイントトかいうソフトを使って資料を作成しようとすると、その1台のマシンをなかば順番待ちのようにして使うこともあったりするわけで、だったら家で作ったほうが速いな、って。そういうわけです。家のMacには入ってるんで。というかMacとWinじゃ同じソフトなのに、なんでこんなに操作性が違うのか教えてください。どっちがいいとかそういうわけじゃなくて、どっちかに慣れてしまうと、もう片方を使うときに同じソフトなはずなのに全然違うもののように感じてしまうんですけど・・・ま、いいけど。 ただ、家でのパソコン操作する場合、今までは炬燵に入りながらっていうのが無理だったんで、ちょっとだけそれにあわせて模様替え。といっても、ディスプレイと、キーボード・マウスだけを炬燵に移動させました。背後にあるパソコン本体から警告音がするときはちょっと違和感ありですが、そのうち慣れることでしょう。(今日は、ワイヤレスの必要性を強く感じましたねえ)
 ちょっと、HP全体的にフォントの設定なんかをいじってみました。が、違いに気づくのはMacで、かつOSXを使っている人だけだと思います。ま、そういうこともあります。
 今日の新開封珈琲はガラパゴス産のサンクリストバルでした。

第九

 年末に合わせて、ということなのか、先日発売されましたサイモン・ラトル指揮ウィーンフィルによる、ベートーヴェン・交響曲第9番「合唱」のCDを購入しました。いわゆる「第九」っていうやつですね。(このCDについては「奏子」にて)
 さて、いいことなのかどうなのかわからないところもありますが、日本人は年末になると「第九」を聴く、というのがいわば、かなり広く習慣となっているようなところがあります。別、対してクラシックに興味がない人でも、年末になると、第九の演奏会に行ってみたり、そういう具合で。ま、それがすっかり染みついてしまっているものだから、例えば夏の演奏会で、プログラムに「第九」があると、妙な違和感を感じてしまうんですよね。
 さて、この「第九」。この愛称はもちろんこの曲が交響曲第9番であるところからきているわけですが、そんなこといっても、交響曲第9番というのはたくさんあるのですよ。たいがい、僕らは、曲を指す時に、「作曲家の略称」+「曲番号」であらわすことが多いんですが、そういう意味では、この場合は、普通なら「ベト9」か「べー9」ということ(2種類あるのは地域などによる)になるんです。で、9番というだけなら、マーラーだって、ショスタコだって、ブルックナーだって、ドヴォルジャークだって、シューベルトだってあるわけですし、果ては、モーツァルトとか、ハイドンにも交響曲第9番というのは存在するんですよね。なのにこの「第九」というのは、ほとんど固有名詞的に、いわゆるベートーヴェンの「合唱」をさすことになってます。というか、今ネットの国語辞典で調べて見ましたけど、「第九:ベートーベンの交響曲第九番ニ短調の通称。」となってるし。
 さあ、これはなんなんでしょうね。なにがここまでこの曲を、番号で固有名詞化という状態にまで至らしめたのか。(だって、別に副題の「合唱」でも十分通じるんですよね)ま、いくつか理由はあると思うんですよ。例えば、その副題にもなっているように合唱がついたシンフォニーであり、しかもその歌詞が、なんといいますか希望に満ちあふれているとか、そういう感じで。別にそういう意味では、「復活」でもいいような気もするけども、これはやっぱり一般的に演奏されたりする分には編成がでかすぎる。普通のオケの編成(つまり、編成上はたいていのオケで演奏可能)で、華々しい合唱もつくけど合唱だけがメインという感じでもなく、曲の構成も比較的取っ掛かりやすくて、メロディは親しみやすくおぼえやすい。もし、そういう条件を考えてみるとすれば、確かにこの曲になるような気はしますが、まあ、別にそうやって選んで、「じゃあ、今からこれをメジャーにしよう」とかそういう取り決めゴトがあったわけじゃないと思うんですけどね。さすがに。とはいっても、誰かが最初に「第九」という呼び方を初めて、それが広がってしまったんでしょうね。・・・しかしここの文章むちゃくちゃですな。すいません。
 「第九」の時期がやってくるなあと思うと同時に、街中はクリスマスっぽくなってきてるし、もう年末ですね、と実感しますね。そうそう今日の七十二候は「北風木の葉を払う」そのまんまです。

チェリ狂なんで

 ここに、セルジュ・チェリビダッケという名の指揮者がいます。というか、いました。まあ、ちょっとだけ、クラシックの世界に、深めに足を突っ込んだ人なら名前くらいは聞いたことがあると思いますし、僕のサイトではよく名前の挙がる人です。多分。というか、一番好きな指揮者なんですけどもね。
 さて、好きなんで、たくさんCDとか持っているわけなんですが、まあ聴いたことのある人ならわかると思いますが、純粋に聴衆として楽しむ分にはなんの問題もないけれども、自分がその曲を実際に演奏しようとすると、ほとんどなんの参考にもならないのですよ。いやいや、たまに僕のまわりの人に勘違いをしているように思われる人がいるのですが、僕はチェリの演奏は好きだけども、チェリのように演奏したいとは思っていないのです。というか、まあしたいと思っても無理なんですが。
 というわけで、なにかしら、演奏しようとする曲が出てきた時に、チェリの録音を聴いてもほとんど参考にならない、ということはわかっていただけたとしまして、そうした場合にいろいろと困ることが多々起こるわけです。例えば、ここにブラームスの交響曲第4番という曲があります。僕は、この曲の録音を4種類持ってます。持っているんですが、全てチェリの演奏です。普段はそれでもなんの不都合もないんです。ただ、そこで、その曲を演奏する、となった場合には、これらの演奏はあまり参考にはなりません。だって、こんなふうに指揮する指揮者なんてまず滅多にいるもんじゃないし・・・ここで、「あまり」というのは、チェリの演奏した年代によっては一般的な演奏(だと僕が思っている)に近いようなものもありますので。(ま、少なくとも、晩年のMPOとの演奏は一般的ではないでしょうねえ)
 こんなことはよくあることです。メジャーな曲だとしても、さあ練習するぞ、とその前に参考にCDを聴いてみようとCD棚を探してみると、実はチェリの演奏しか持っていなかったり、とか。で、まあ、そうやって、結局ある程度普通の演奏の入ったCDも買うことになる場合が多いので量的には倍になっていくんですよねえ・・・さて、このブラ4はどうするかなあ・・・と。
 あ、ここに書いてある話が意味不明だった人は、一度、聴いてみることをお薦めしますよ。まあ、メジャーなとこで、チャイコの5番とかなあ。
 また急に冬モード。週末はいつも穏やかな気候なんで、週末になったらストーブを出そう、という目論見はいつも忘れ去られたまま・・・なんとかなるか。

傘袋について

 久しぶりの雨かもしれません。雨が降っていると、当然、建物間の移動は傘を差して、という状態になるわけですが、まあそうするとだいたいにおいて、お店系の建物の入り口には、ぬれた傘をそのまま建物内に持ち込まれないように、と傘から水滴が落ちないようにするためのビニール袋(「傘袋」とします)がおいてあるものです。 しかし、なんといいますか、この存在はなんとも環境には優しくない気がしてならないわけですが、そもそもの発端を考えてみることにしましょう。まず第一に、傘をそのままの状態で建物の中に持ち込んではいけないわけですが、たとえば、家とかですと、これは傘立てに傘をたてかけることで、そもそも傘そのものを(それがどういう状態であるにせよ)建物の中に持ち込まなくてすむ、ということになってます。ただ、不特定多数の人が出入りする空間になりますと、他人の傘を故意に、あるいは間違って、持っていってしまう可能性もあるわけで、そうなりますと、当の傘の持ち主としてはそれは大変困ってしまうので、たとえ傘立てがあっても傘を持ち込んでしまうようになってしまうわけですよね。そこで、場所によっては、傘立てに鍵なんかがついているものを置いてある場所もあるわけですが、これはこれで、管理は面倒だし、利用する側としても鍵をかけたり持ち歩いたりする(ほんとにわずかな)手間を惜しんでしまうためか、あるいはやっぱり自分の傘は常に自分で携帯したいという気持ちがあるために結局のところあまり意味をなしているようには思われません。そこで登場するのがこの傘袋です。利用する側としては傘を傘袋にいれる作業はちょっとは面倒であると思うんですけどね。でも、傘の保持に関する安全性だけは抜群でしょう。多分。ただ、そこに大量の使用済み袋がたまることをのぞけば。
 今日、僕は、食堂と図書館、それに2カ所の購買部をまわったので、計4袋を使用したことになります。もちろん、そのどれもが、誰かの使用済みを再利用した(あるいは、自分で自分の使用済み傘袋を持ち歩いた)わけなのですが、よくよく見ていると、そうやって誰かの使用済みを再利用しているような人って、あまりいないような・・・ざざっと2〜3割か、それよりもっと少ないのかもしれません。ということは、あの使用済み袋入れにある傘袋達は、その多くがわずか数分〜数十分程度、役に立っただけで、その使命を全うせざるを得なかったと言うことになるのでしょうか。う〜む。やっぱりこれはよくないよねえ・・・あれがないと確かに、困るといえば結構困るでしょう。あとは、みんなの意識の問題なんですけどねえ。
 と、ここまで書いて思った。もしかしたら、というか当然でしょうが、あの場ではなくとも、あの使用済み傘袋自体はちゃんとリサイクルのサイクル内に入っているんでしょうね。だいたい使用済み袋入れに、そのほかのゴミなんかを入れるような非社会的なヒトっていないだろうから、そういう意味では、あの中身は100%ビニール袋なわけです。とすれば、リサイクルへの回収も楽ですね。とはいえ、やっぱり、その本格的なリサイクルに入る前(それはそれでそれなりに費用がかかってしまう)にも、もっともっと利用するべき(こっちはタダだから)なんだろうな、って思いますけど。

料理の話

 比較的料理をするほうです。多分。ここにも何度も書いてますけども。料理という行為自体は、モノを食べる、ことへのそのための単なる手段というわけではなくて、その行為自体がある意味目的みたいなものですから。といっても、いつでもそういうふうに思えるわけじゃないんで、そういう時は適当にすますんですけどね。
 まあ、さておいても、一人暮らしの料理というのはなにかと気楽なもんです。少々の失敗は気にならない、つまみ食いなんかもご自由に、とかね。今朝も、最近頻繁に大量生産するパンケーキを焼いていたんですが、もちろん、お腹も減っているわけだから、全部やいてしまってから、最後に食べる、とか、途中で中断する、とかそういう面倒なことはせずに、食べながら焼く、という方法をとるわけです。コンロの前に立ちながら、焼き上がったのをそのまま口にもって行く。こういうところが気楽ですよね。
 さて、今日の晩は、前回の冬に挑戦しようとして結局しないままだった、粕汁。いや、挑戦っていっても、全然たいしたことじゃなくて、単に酒粕を買う機会がなかっただけなんですが。しかし、こういう類いの汁物は、豚汁とかもそうですが、ほんとに寒くて凍えそうな時に食べるのは一番だという気はするんですが、ここ数日はそれに反してちょっと穏やかで、ま、それでもいいか、と作ってみたものの、でも、やっぱり冬模様な日々には変わりないから、じつにおいしくていい感じ。今日のは酒粕のみでしたけども、明日はこの残りにちょっと味噌でも入れてみますかね、と。
 よくよく考えてみると、多分この粕汁って、初めて食べたのが京都にきてからではなかろうか、とか。(違ったら申し訳ありませぬ)日本のお酒を飲む文化のないいとー家においては少なくとも、酒粕だけで作った上に、さらに日本酒を入れて、なんていう粕汁は飲まんよなあ、と。(もらった高級純米吟醸もあっさり料理酒になるくらいだから)ま、どうでもいいか。

 大学祭も今日終わりをむかえたようで、それに加えてこの連休で、なんと家の近辺の人込みがすごかったことでしょう。それもようやく収束してくれるかな。もう12月になろうとしているし、観光シーズンもそろそろおしまい。(今日は、行く先行く先、人があふれてました)

おいしい珈琲を求めて

 毎週、というわけでもないけれど、だいたい毎週、週末のお休みの時には、ぶらっと喫茶店に行くようにしてます。日頃、前を通ったりしていて気になるようなお店をピックアップしておいて。もちろんお目当ては珈琲(あるいは紅茶)だから、お店選びにも一応こだわりがあったりします。例えば、・小川コーヒー(関西にある大手のコーヒー会社)関連のお店は絶対にやめる
・定食やらがおいてある店もやめる
とかそういう感じで。その店のオリジナリティがちゃんと存在するような、そんな珈琲を飲みたいですからね。そういう意味では、そのオリジナリティをちゃんと明示してあるところには行きやすいです。どんな豆を使ってるか(種類やら焙煎の方法やら)、とか、どういう淹れ方をしているか、とか。もちろん、そこにおいしい軽食がついてくるのは非常に嬉しいことですが、こちらはあくまでもおまけだから。あ、でも、紅茶目当ての時は、お茶菓子がちゃんとしたところでなければ駄目ですね。スコーンは必須。だけども、まあ、ケーキとかでもいいとは思いますが。(とはいえ、スコーンがなかったら、多分行かないけど)
 今日もそんな感じで、前から目をつけていたお店に行こうと思いまして、自転車をこいでおりましたら、ちょっと考え事なんかをしているうちに、いつの間にやら通り過ぎてしまったらしく、う〜む、引き返すべきか、どうしよう、と迷っていると、今まで気がつかなかった別のお店を発見。上記の条件はちゃんと満たしてましたし、おいしそうだったから、急遽、というかまあ行き当たりばったりにそのお店に入りました。
 いや、かなり正解でしたけどね。おいしい珈琲でした。ただ、今後の教訓に、と思ったこと。食事には刺激のあるものは避けましょう。せっかく珈琲が出てきても、口の中に刺激が残っていて、最初の一口がかなりもったいないことが判明。以後、気を付けないと。
 珈琲ついでに、最近、陶器のドリッパーを買いました。今まで、プラスチック製だったんですが、やっぱり陶器ですよね。熱の伝導性も、保温性も全然違うから。ただ、今愛用の珈琲カップは口が狭く、ドリッパーがぎりぎりはまるか?というくらいなために、気を付けていないと珈琲が横から漏れたりします。これにはかなり困ってます。う〜む。
 飲み物ついでにもう一つ。この間買ったウィスキーがなくなったんで、今日別のを買ってきたんですが、やっぱり、なくなる前に買いに行くべきだったな、と。じゃないと、味の比較もできんしなあ・・・これも今後の教訓に。

小雪

 久しぶりにちょっとだけ暦のお話。今日は「小雪」。「こゆき」ではなくて「しょうせつ」です。読んで字の如く?、雪もちらほらと降り始めてしまうような、そんな感じで、本格的な冬の到来ということだそうで。でも、今日は、特に昼間は結構暖かかったような。いい日和でした。とはいっても、もう、まわりの草花たちはすっかり冬模様に変わり始めてきまして、紅葉もどんどん散ってます。どんどん。しかし、観光客の足はとだえることがないようで、ちょうど明日も祝日だから、ということもあってか、たくさん団体さんを見かけました。
 ちなみに、七十二候の方はといいますと、「虹かくれて見えず」という感じで、太陽の光が弱くなってしまうせいで、虹が見られなくなるとか、そういうことらしく、ようは、やっぱり冬ですか。そろそろ本格的に冬支度もしないと行けないんでしょうね。ストーブまだ出してなかったし。。。(ま、このストーブを買ったのは確か、今年の1月ごろだったから、昨年末は炬燵のみで過ごしたはずだし、そういう意味では大丈夫なはずだけど)

 気がつけば、11月もあっという間に過ぎ去らんというところまできてるし、ああ、年賀状か・・・なんて思ったりすることも多くなってきました。今年は出してなかったし、今回はちゃんと作りたいとは思えども、どうなりますことやら・・・せっかく、プリンタもあるしねえ。
 いやいや、ということは、つまり、修論の締め切りもどんどん近づいていってるってことか・・・う〜む。だいたい、来月はQ大での研究会で講演する予定だし、年賀状とか言っている場合ではありませんな。といいつつも、作るんだろうけども・・・多分。
 さてさて、この週末はいかが過ごしましょうかねえ。まだ、あんまり計画がたってないなあ。

公序良俗

 今日からなにやら大学祭みたいなものが開催されているようで、キャンパス内のいろんなところにいろんなお店が出来上がっているようでした。まだ、実際の開店時間よりちょっと早い時間帯に、まあちょうど店の準備をしているような時に、そのあたりを通り過ぎて、普通に図書館に向かっておりました。お祭り自体に特に興味もありませんし。。。(知り合いが店を出してるとか、そういうこともないんでね)
 すると、視界の片隅に、こんな看板が入ってきました。「女装喫茶」・・・う。。。こいつはまずいな。。。しかしながら、そんなことも、一瞬のうちに意識の中から消えうせていったのです。いやいや、消えていくはずだったのですよ。目の前から、彼らがやってこなければ。そう、まんま、その喫茶店のメンバーであろう集団が目の前からやって来たのです。うぅ・・・見ないように、見ないように、目を合わせないように、と僕はこそこそっとその横を通り過ぎていきます。なにしろ、かなり刺激が強い。打ちのめされてしまうほどにきつい、そういうオーラを発している集団だったのです。あまりのことに、そのことの詳細はここにはとても書けません。それほどまでに、おぞましいものがそこに・・・
 まあ、そんなこともありつつ、しかし、なにごとも無かったかのように、図書館にたどり着いて、目的の本をてに、再び同じ道を帰ってきたのですが、つまるところ、同じ道を戻っているわけなので、僕自身、結構あっさりと、先程の強い刺激を忘れかけていたためにあまり気づいていなかったけども、同じ集団に再び遭遇する確率はかなり高かったのです。そして、遭遇した。しかも、多分さっきの連中とは若干メンバーが違っている気がする・・・って、いったいどれだけの連中がそのテの格好してんねん!と、心の中で軽く突っ込み。
 で、再び、彼らの横を通り過ぎていく時に、こんな会話を耳にしました。「なあ、誰かに買い出しにいってもらわんと、、、さすがにこの格好では外にでられん・・・」・・・その前に、キャンパス内でさえも、その格好でうろつくのはやめてくださいな。ほんと、頼みますから・・・