記念写真

 今日もかばんに借りた本を詰め込んで、図書館に行っておりますと、もうすっかり冬突入で京都の観光シーズンも、ちょっとだけオフかな?とか勝手に思っていたんですが、実際そんなことは全然なかったようで、図書館近辺の名所といわれるところには、やっぱりたくさんの人がおりました。そして、たいがい団体さんはアジア系が多い。いつもながら、人力車のにーちゃんには関心しますよ、って別に僕に関心してもらっても仕方ないんですが。
 さておき、観光名所にありがちな光景として、記念写真というものがあるわけですが、いつも思うんだけども、なにかしら名所と呼ばれるような建造物なんかをバックに自分の写真を撮ることの意味がよくわからなかったり。いや、別に、撮りたい人は撮ってもらっても構わないわけですし、そんな、人のことに口を出したりとか、そういうんじゃないんですけども、ただ、僕はそういう写真が欲しいっていうふうには思わないんだよなあ、と。少なくとも、自分の思い出としての記録にはならんですねえ。
 自分を含む人物を撮ることに否定的なのではなくて、観光地で自分の姿をわざわざ(それこそ場合によっては、通りすがりの他人に撮影を頼んだりするわけで)写真におさめる必要があるのかな、と。自分の記憶というよりは、人に見せるための記録といいますか、そういう感じ。だって、自分が撮った写真は、自分が写っていなくても、それはまぎれもなく自分が撮った写真なんだから、その画面に自分がいるいないに関わらず、その写真を見ることで、自分がそこにいたという記憶は簡単に蘇ってくると思うのですよ。それこそ、他人に対しての「こんなところにいったのよ」的な証拠でない限りは。
 って、まあ、たかだか20数年の人生を送ったに過ぎない上に、そういう記録を残し出して、まだ1〜2年程度だからそういうことがいえるのかもしれないんですけどねえ。もっともっと記録自体が膨大になってくると、曖昧になってくるのかもしれません。といっても、それ自体、別に、その写真に自分が写っているかどうかは関係ないけど。いやいや、これは、写真に自分が入る必要がない、という理由にはなってるけど、入ってはいけない、という理由じゃないな。。。だから・・・
 そうそう、大事なことなんですが、そもそも、その風景に、例えば自分が入っていることで、なにかしら、その風景そのものの本質的な部分が損なわれているような気がしてしまうんですよ。多分。名にしろ、背景そのものはもとからあるものかもしれないし、そこを通り過ぎていく人々も別に仕組まれたものじゃないんだけども、その中に立ってカメラのほうを向く自分がいたとしたら、それはただの作り物になってしまうから。自分が下手くそに作り上げた風景になってしまうから。それが嫌なんでしょうね。(もちろん、自分や人物メインの写真とかなら、構わないんでしょう。そういう意味で)
 最近、書きながら、結論がまとまってないことが多いような気分。読み直してみると、たしかによくわからん構造になってしまってる。でも、なおせなくて、ね。なんだか部分修復は不可能で、現状維持か、破棄、しかないような感じなんで、現状維持をいつも選択しているわけです。ご了承くださいな。
 昨日に引き続き、今日の新開封珈琲はコロンビアのエメラルドマウンテンでした。昨日のとあわせて、しばらくはこの2種類で。


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