思えば、なんと多くの「偏見」に満ちた生活を送っているんだろうなあ、と。もちろん、大きなものから、小さなものまで、その「偏見」にも様々あるわけですけれども。この「独り言」でもよく「偏見かもしれませんけど」のような言い回しがあったりするわけで、でも、自分でそういっているうちはまだ大丈夫なんでしょうけどねえ。気がつかない「偏見」もそれこそ無数に内在していることでしょう。
そもそも、なにか物事を知る、ということになれば、必ずそこに「偏見」の芽みたいなものが付随してくるわけで、それがそのあとどうなっていくかは、もちろんその物事自体にもよってますし、僕自身の受け取り方にも、そしてその他大勢の人の受け取り方にもよっているわけなんですよね。なにも知らなければそこには「偏見」なんてものは生まれ出てくるはずもないし、そういやあ遥か太古の人が「無知の知」なんてことをいっていたような、そんな気がしなくもないわけですが、(しかも、全然見当はずれの引用な気がしなくもないわけですが、それはさておき)この現代において、情報・知識そのものが価値があるともいわれるような時代ですから、まあ知識を得る、という行為自体を否定するわけにもいきますまい。
「偏見」と「常識」っていえば、多分表裏一体のもの(正確にいうと、「偏見」の逆は「常識」の部分集合かな?)で、これこそまさに紙一重の違い、かと思うんですが、ようは、自分がmajorityに属しているかminorityに属しているか、どっちなんだ?っていうことですよね。実際のところは、「圧倒的」っていう接頭詞がつくとは思うけど。大した差がなければ、それらの見方は単なる「人それぞれ」ってことだから。といったものの、結局「偏見」も「常識」も「人それぞれ」には違いなかったり。
いやいや、まあ、大きな話をするのはやめておくことにしましょう。わけわからんし。あ、まいどのことながら「偏見」=「かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき、客観的根拠がないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、またそれにともなう感情」らしいです。これを読むと、対人に対してのみに使うのかな?と思ったんですが、どうなんでしょう?物事に対しては「偏見」っていわないのかな?
さて、当然のことながら、自分で受動的に「偏見」に気づくわけもなく、ある程度は能動的に「偏見」を無くそうとか、思ってないといけないんでしょうね。とはいえ、なんだか「偏見」が存在しないことがいいのか、といわれると、それはどうなんだろう?と思ってしまうのはいけないことなんでしょうか?どっちにせよ、自分に対する「偏見」はそれなりになくなっていただいたほうがよいでしょうが。だいたい、自分も自分に「偏見」を持っているかもしれないし。そもそも自分自身に対する「客観的根拠」ってなんなのよ?ってことで。
そんな感じで、やっぱりこの文章も「偏見」に満ちあふれているような気がしてならない、というか満ちあふれてますねえ。