献血日記と大雪

 いつもは頑張って2週間ごとにいっていたんですが、ちょっとその頑張りも減少しつつ。といいますのも、この間この1年間の献血回数を数えてみたら、今年度(正確には来年の4月末だけど)にできる献血の回数は最大でも5回、今のペースだと3回なんですよね、ということが発覚しまして。というのも、成分献血にも2種類ありまして、血漿と血小板があるんですが、血漿だと年間24回なのに対して、血小板は血漿の場合の2回分に相当するとか、そういうややこしい話もありまして、血漿の回数に換算するとすでに19回分していることになっていたわけです。なので、あと4ヶ月間くらいの間に最高でも5回しかできないんだったら、そんなに頑張って2週間おきに行かないほうが、むしろ「最近献血してないな〜したいな〜」とか思わずにすむかな、と。
 ちなみに、今日いきますと、いつの間にやらずいぶんと看護婦さんの顔触れが変わってまして、ちょっとびっくり。見たことのない看護婦さんに針を刺されたりするのはちょっとドキドキしたり。痛いかな?とか。でもそんなことはなかったですけどね。にしても、献血終了時に針を抜くときの、あのなんとも言えない感触はほんとになんとも言えないですねえ。あ、今日は血漿のほうだったんで、あと4回分ですかね。年末ぎりぎり(31日)に行こうか、それとも年明け直後(2日)に行こうか、とかそんなしょーもないことを悩み中です。
 で、今日は「大雪」。「たいせつ」です。前回(小雪)同様に「おおゆき」ではないのであしからず。本格的に冬の到来だとか、そういう感じで、ちょうど今日は最近の異様な穏やかさとは変わって、冷たい雨が降ったこともあって、冬っぽい。とはいっても、あれで10度きってるんですねえ。とか思ってしまったけど。雨のせいで逆に湿度があって、寒さを感じなかったのだろうか?冷たい風がなんと心地よかったことでしょう、と。
 雨のせいで若干機動力が落ちてしまって、なんともですね。せっかくの週末で、演奏会とかあるのになあ・・・

紫を食するとか

 質問です。紫色の食べ物って何か思い付きますか?と。いや、当然といいますか、紫イモ、以外ってことで。ひょんなところから、というほどのもんじゃないけど、林檎を手にしたので、またサツマイモの林檎煮でもしようかな、と思ってスーパーに行くと、サツマイモの横に紫イモが置いてあって、思わず買ったわけですよ。まあ、調理方法はまったくおんなじで。一緒に煮るだけ、っていう難しくもなんともなくて、ただ時間が若干かかかるだけ。それはそれでいいんですが、出来上がったものって、やっぱり、紫一色なんですよね・・・これってどうなんだろう?いや、もちろん、味は問題なし。っていうかおいしいんですが、紫色っていうのは、必ずしも食欲をそそる色彩はもってないですよね。それもドテッという感じの原色紫だし。
 よくある話だけど、こういう色の食材を最初に採用した人はすごいなって思いますけどねえ。だいたい、イモかどうかもわからんぞ。見た目だけじゃ。で、知らなかったんですが、紫イモって、外側は白っぽいんですよね。で、切ってみると、生の状態から、もう中身は紫一色。そうだろう、って知っていても、ちょっとうわって思ったり。いやいや、おいしいって知ってるから、別にそこでひるんだりとかそういうことも一切ないんですが、出来上がったものをみているだけで、ほんと、この食材を採用した人はすごいなあ、と関心せざるをえませんねえ。紫だし。
 さて、紫色の話はさておいて、あれからちょうどまた1月経って、今日は旧暦の3日。というわけで、夕暮れ時にはきれいな三日月が見える可能性があるわけでした。でも、今日はなんだか曇り空だし、調子悪いなあ、とか思って、研究室をでたときも、ぶらっとまわりを見渡して、やっぱり見えないかあ、とか思いつつも、山を登って家路についたわけです。そしたら、目の前に、なんとも不気味?な感じといいますか、黒雲に完全に支配されつつも、その中でしっかりと輝く三日月がいるではないですか。しっかりと、といっても、かなり輝きは失われているようではありましたが、しかしそれでも、満足満足。ちなみに、月齢でいうと2くらいでした。ほんと、今の時期しか見ることはできないでしょうね。もう月末には冬至だし。

活字中毒その後

 そういえば、と、まあ、誰も覚えてないでしょうが、急性活字中毒のその後。もはや、急性ではなくなってしまってますけども。
 しばらくのあいだは、ちょっと小説系からは離れている時期もあって、音楽関係の、伝記モドキみたいなやつだとか、評論みたいなやつとかを結構読みあさっておりました。が、思い出したかのように、再び、中毒の発端のほうへと立ち返ってきまして、先日、当初の目的はほとんど達成してしまったんですよね。「ほとんど」といいますのも、まあ、栗本薫の伊集院大介シリーズは少なくとも図書館で手に入る分については全部読んでしまったんですが、ここ数年のものは数冊手付かずのまま(というか、どっかで買うなりしないといけないわけなんで)でして、あと、村上春樹のほうも小説はあと1作品を残して全部読んでしまったのは読んでしまったんだけども、その、あと1作品がねえ、、、なかなか図書館に戻ってこなくて、というわけでして、だから「ほとんど」。図書館で本を借りて、それが結構人気のあるものだってわかっている上(つまり、その借りた本人も、その本を借りるまでには、それなりに待ったはず)で、もうすでに2ヶ月以上延滞(しかも、夏休みの長期貸し出しも含んでいたから、実質3〜4ヶ月借りっ放し)しているんですけど・・・というのもどうかと思うんですが、回収能力に欠ける図書館もどうなんでしょうねえ。ま、いいけど。実家に帰れば、その本は置いてあるはずなんで、来週帰省したときに読むことにしましょう、と。
 さて、ちょっと栗本薫の本のお話。僕は、あまり最近のよく出回っている推理小説とかを読んでない(今までに読んだのって、ドイル、クリスティー、それから乱歩に栗本薫・・・偏ってる)ので、なんともいえないんですけども、昨今のサスペンスドラマを横目で見ている感じにおいては、ありきたりの犯人の生い立ち、動機にはじまって、トリックといいますか、その辺が結局メインなのか?というものばかりなような。いやいや、推理小説っていうのは、そういうものなんだと思ってはいるんですが、にしてもよくここまで同じようなものが氾濫しているよなあ、という印象をぬぐい去ることはできません。(まったくの偏見なんで、「それは違うぞ!」という方がおられましたらご勘弁を)なんですが、彼女の本を読んでいると、それだけじゃないものをたくさん感じてしまって、こういう作品も存在し得るんだなあ、とちょっと発見。多分、こんな雰囲気の推理系の小説って他にもいろいろ書いている人がいるんだとは思いますけどね。ま、社会問題的な面が多いっていうだけかもしれんので、そういう意味では、もしかしたら、最近はそういう風潮があるのかもしれません。そりゃあ、いろんな事件が単なる1つの事件としてではなくて、大きな社会問題になってますからね。(といっても、あまりにいろんなことが起こり過ぎて、すべてはすぐに忘却の彼方に散ってしまうんですよねえ・・・)
 読むものが無くなってしまうと、やっぱり手持ち無沙汰なのはあいかわらず。でも、なんでもいいから読みたい、っていうほどの勢いはないので、まあぼちぼちと。だいたい、そんなことにたくさん時間を費やしている場合ではないような気がする今日この頃ですから。来週は研究会で発表だしなあ。

クリスマスに向けて

 とかいってみる。いやいや、別にキリスト教だとか、そうじゃないとか、そういうどーでもいい議論はほんとにどーでもいいんで、純粋に一つのイベントとして考えております。季節モノですから。(ちなみに、クリスマス礼拝とかも行ったことはあります。1回だけだけど)
 季節モノなんで、やっぱりふさわしいもの、と、今までは、まあゲーリー・カーのクリスマス音楽特集であるとか、あとはバッハのクリスマス・オラトリオだとか、バロック以前の宗教合唱曲なんかが、この日に向けてわが家の中ではよく鳴り響いているわけですが、今年はさらに、ヘンデルの「メサイア」が聴きたいなあ、とかそういうふうに思ったわけです。もちろん全曲もの。ここら辺も福岡にいる間に図書館でCD借りて、手に入れておけばよかったですねえ、というのも、あの頃に、自分がこういう音楽(ミサ曲系とかオラトリオみたいなのとか)にちゃんと興味を持つと思っていなかったというか、先見の明はなかったなあ、とそういう感じです。同じくバッハのヨハネとかまでは一応持ってるんですけどね。あとは、マタイと、ハイドンの「天地創造」とか、そういうのもいずれは欲しい。
 そんなわけで、早速CD屋さんに物色に行きました。といっても、もう演奏者の組み合わせは、アーノンクール&C.M.Wと決まっていたので、探すのは簡単だったのです。そして、見つからないときもあきらめるのは簡単・・・なんでないのよ・・・天地創造とかもなかったし。一応マタイはあったけど、今は特には欲しくなかったので却下。
 そういやあ、「くるみ割り」もありだなあ、とか思ったりして、全曲版を物色したりもしたんですが、どうもそこまで気乗りはしなかったので、結局今日はあきらめです。ちょっと、別の(これも今日のお目当てではあったんで)は買ったけど。
 クリスマスに「メサイア」を聴く計画は果たして成功するんですかねえ・・・それまでにどっかで見つかるといいけどなあ。なにしろ、この時期を逃すと、また、別にそこまでして聴かなくても、という気持ちが出てくるかもしれませんし。
 ここ数日は、なんだかちょっと妙に穏やかな日が続いていますけど、週間予報を見るとマイナスの文字は見えてくるし、油断はならないとか、そういう感じ。旧暦でも霜月になりましたしね。ま、インクジェット用年賀はがきも手に入れて、とりあえず、年末に向けての準備は着々と。

偏見

 思えば、なんと多くの「偏見」に満ちた生活を送っているんだろうなあ、と。もちろん、大きなものから、小さなものまで、その「偏見」にも様々あるわけですけれども。この「独り言」でもよく「偏見かもしれませんけど」のような言い回しがあったりするわけで、でも、自分でそういっているうちはまだ大丈夫なんでしょうけどねえ。気がつかない「偏見」もそれこそ無数に内在していることでしょう。
 そもそも、なにか物事を知る、ということになれば、必ずそこに「偏見」の芽みたいなものが付随してくるわけで、それがそのあとどうなっていくかは、もちろんその物事自体にもよってますし、僕自身の受け取り方にも、そしてその他大勢の人の受け取り方にもよっているわけなんですよね。なにも知らなければそこには「偏見」なんてものは生まれ出てくるはずもないし、そういやあ遥か太古の人が「無知の知」なんてことをいっていたような、そんな気がしなくもないわけですが、(しかも、全然見当はずれの引用な気がしなくもないわけですが、それはさておき)この現代において、情報・知識そのものが価値があるともいわれるような時代ですから、まあ知識を得る、という行為自体を否定するわけにもいきますまい。
 「偏見」と「常識」っていえば、多分表裏一体のもの(正確にいうと、「偏見」の逆は「常識」の部分集合かな?)で、これこそまさに紙一重の違い、かと思うんですが、ようは、自分がmajorityに属しているかminorityに属しているか、どっちなんだ?っていうことですよね。実際のところは、「圧倒的」っていう接頭詞がつくとは思うけど。大した差がなければ、それらの見方は単なる「人それぞれ」ってことだから。といったものの、結局「偏見」も「常識」も「人それぞれ」には違いなかったり。
 いやいや、まあ、大きな話をするのはやめておくことにしましょう。わけわからんし。あ、まいどのことながら「偏見」=「かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき、客観的根拠がないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、またそれにともなう感情」らしいです。これを読むと、対人に対してのみに使うのかな?と思ったんですが、どうなんでしょう?物事に対しては「偏見」っていわないのかな?
 さて、当然のことながら、自分で受動的に「偏見」に気づくわけもなく、ある程度は能動的に「偏見」を無くそうとか、思ってないといけないんでしょうね。とはいえ、なんだか「偏見」が存在しないことがいいのか、といわれると、それはどうなんだろう?と思ってしまうのはいけないことなんでしょうか?どっちにせよ、自分に対する「偏見」はそれなりになくなっていただいたほうがよいでしょうが。だいたい、自分も自分に「偏見」を持っているかもしれないし。そもそも自分自身に対する「客観的根拠」ってなんなのよ?ってことで。
 そんな感じで、やっぱりこの文章も「偏見」に満ちあふれているような気がしてならない、というか満ちあふれてますねえ。

吃逆さん

 昨日の夜、久しぶりにあらわれてくれました。吃逆さん。ま、久しぶりっていっても、当然そこには感慨深い思いとかそういうものは一切あるはずがなくて。「なんでいきなりなん?」という感じ。(いや、もちろん、こういうものって「いきなり」なのが当たり前なんですけどね、そういう細かいことは無視することにしまして)
 あれって、かなり困りますよねえ。ほんと、いきなりあらわれるし、規則正しいのかランダムなのかわからないリズムを刻んでくれるし。当然、それを自分の胸のうちだけにとどめておくことなんてできるわけもないし。
 まあ、そういう感じで、突然(だから、吃逆は「突然」あらわれるものだ、とかいうのももちろん無視)あらわれた吃逆さん。たしか、寝る前になると、気がつくといつの間にやらおさまっていて(だいたい、そうですよね。気がつくとおさまってることが多い)、もうそれがあらわれたことすら記憶の彼方で塵と化してしまうはずだったんですけどねえ。今朝起きたときまでは大丈夫だったのに・・・というわけで、朝、気持ち良く目覚めて、身支度なんかをしていると、またまた突然あらわれてくれましたり。もう、なんていうか最低だ。パソコンのまで作業している間も、ずっと、そのなんともいえないリズムで僕の思考はかき乱されるし。でも、それもそんなに長くは続かなかったようで、昼ご飯の時くらいにはやんでいたみたい。これも、昼ご飯を食べて、家を出たときに、「あれ?そういえば、いつの間にかとまってるよなあ・・・」と思ったくらいだったから。が、しかし、そう思ったのも束の間、次の瞬間に、再発してるし・・・もう、なんなん?!
 そんなこんなで、研究室にいる間も、ずっと1人苦しみながら、モノを考えようにもその変なリズムに惑わされてちっともうまくはいかない。いろいろ、吃逆さんを僕の中から追い出す努力もしてみたりしたんですが、それらはすべて儚く終わってしまったり。結果的には、またまたいつの間にやら消えてましたけども・・・もう、なんだかなあ・・・
 あ、ちなみに吃逆とは「横隔膜の不随意性の痙攣のため、吸気時に声門が突然開いて特殊な音声が出る状態」だそうです。んでもって、「しゃっくりのとめかた」とかいう、こういうサイトも探してしまった。http://www.ne.jp/asahi/comix/mokichi/shakkuri/もっとたくさんあるみたいですねえ。みんな考えることはおんなじなのか・・・そして、絶対的な止め方が存在しないのも、ある意味自明の理。ま、そんなもんなんかなあ・・・

喫茶店にて

 今日は、昼間の演奏会が始まる前に、先週行こうと思って、いつの間にか通り過ぎてしまったお店へ再度挑戦。先週の時のあとも何度かその道を通ることがあって、一応ちゃんと場所を確認しておきました。まあ、たしかに通り過ぎてしまう気持ちも分かる気がしますけどね。結構目立たないし。
 さて、僕が行くようなお店にはだいたい2種類ありまして、昔ながらで外観も中身も古めかしく中に入るとテレビがついてて馴染みのおじちゃんとかが店の人と世間話をしているようなところ、あるいは、こざっぱりした店内には静かにクラシックとかジャズとかが流れているようなところ、ですね。で、今日のは明らかに前者。店にはいると、違うテーブルに座ってるおじちゃんが二人世間話をしていて、お店のおばちゃんはその横で新聞読んでました。テレビには囲碁が流れてた。
 で、こんなやりとりを。「ランチってなんですか?(カレーもあったけど、それは前回の教訓から即却下)」「日曜だからねえ、あんまりないんだよねえ・・・魚の焼いたやつとかだけど、魚とか食べる?」「魚ですか?じゃ、是非」と。魚なんて、自分で焼く秋刀魚くらいしか食べてないですからねえ。で、よく見てると、テレビの下にプレートがかかってて、「サワラの味噌焼」と書いてある。あ、これですか、と。しばらく本を読んでると、お盆にランチ(というか定食だな)がのってやってくる。こういう形式の食べ物もかなり久しぶりな気がする。純粋に茶わんに白ご飯だけが入ってるのを見るのもかなり久しぶり。
 食べながら、ふとさっきのプレートを見ると、そこには先程の「サワラ〜」の文字はなく、あ、僕のが最後だったのね、という感じで。のんびり、味わって食べてますと、家族さんが来店。3人組。テーブルについて、「ランチはなんです?」と。おばちゃんぼくのほうをちらっとみながら「あ〜。すいません。もうないんですよね」とのこと。思わず顔を上げた僕の視線とおばちゃんの視線が一致して、(やっぱり僕のが最後だったんですね?)(そうよ)みたいなそんなやりとりを感じました。その時の視線は結構印象的だったかなあ。もちろんいい意味で。
 他にもおばちゃんとのいくつかのやりとりがありながらも、お目当ての珈琲はまたまたこれがおいしくて。こういうのってやっぱり自分のその時の気分とか、その店に入ってから珈琲が出てくるまでの時間になにが起こったのかとか、そういうことに非常に依存しているんだろうなって思いますけどね。とにかくお店の雰囲気はいい感じだったから、期待していた珈琲も期待通りに飲めました、と。(一応「自家焙煎」っていうことだったから、それに魅かれたんで)
 お金を払うときまで、なんとなくほのぼのとしたやりとりをしながら(ああいうところで「にーちゃん」という呼ばれ方をすると、どことなくもう打ち解けてしまったような錯覚をおぼえるのは僕だけかな?)も、すごくさっぱりとした気分になって、僕は演奏会へ向かったのでした。

自転車のりながら

 自転車をこぐ、という動作はもちろん、移動のための手段の1つであるわけなんですが、自転車に乗っている間に、人がただ足を動かしてこいでいるだけかっていうとそうでもないですよね。いや、もちろん、表面に出てこないところではいろいろなことがおこっているのかもしれませんが、表面に出てこないので、見た目にはわからないから、そういう話はおいておくとしまして。
 例えば、非常によくありがちなのが、僕もやってますが、音楽を聴く、とか。ま、これはたしかに、まわりの音が聞こえにくくなったりすることもあって、それはそれで若干危険なのかもしれませんが、そんなこといっても、少なくとも僕の場合は、車が近づいてくる音が聞こえなくなるほどの音量で聴いているわけじゃないんで、まあ、気にせずに。
 他にといえば、携帯電話系。電話で話しをする、メールを送る、とか。たまにそういう機会があったりするんですが、少なくとも僕にとって、これらの動作は危険なものです。必ず、自転車止めますね。電話を取り出して、耳に持って行くとか、画面に表示された情報を見るとか、そういう一連の動作が、かなり自転車自体のバランスに影響しますから。そういう意味では、車に乗っているときのほうが、まだ危険は少ない。ま、車の時は、そもそも、留守電モードなんで、誰からの着信が見るだけで、受け答えることはないですね。
 あとは、と、飲食系ですね。まあ、たとえば、パンとかの類いをかじるとか、ペットボトルのお茶を飲むとか、それくらいだったら、別に気にもならないし、まあ、自分でもするかなあ、とか思います。見た目には行儀悪いかもしれません、っていうか、悪いんでしょう。そうそう、たばこはやめて欲しいけど。ほんと、あたったら危ないって。
 さてさて、これらのことって、結構日常的に目にする光景だと思うんですが、たまに、すれ違って、え?そんなことまでわざわざしなくて・・・って思うことがあります。もう、ほんとにびっくり。それぞれ今までに1回しか遭遇したことないですけどね。「本を読む」「カップラーメンを食べる」う〜ん。前者は純粋に危険です。だいたいふらふらしてたし。その意図が全然分からんし。後者もなんだか意味不明。急いで移動しないといけないけど、お腹もすいた、といいますか、だったら、もっと食べやすいものにしたらいいのに・・・と。あ、カップ麺の場合は、容器自体はカゴの中に置いてたような。だいたい、こぼれますよ、あれは。すれ違っただけなんで、一瞬目を疑ったけども、まあその間に相手は遥か後方に、って感じでしたけどねえ。しかし、世の中にはいろんな人がいるもんだ。
 もう11月も終わり。ほんと、年末ですねえ・・・

記念写真

 今日もかばんに借りた本を詰め込んで、図書館に行っておりますと、もうすっかり冬突入で京都の観光シーズンも、ちょっとだけオフかな?とか勝手に思っていたんですが、実際そんなことは全然なかったようで、図書館近辺の名所といわれるところには、やっぱりたくさんの人がおりました。そして、たいがい団体さんはアジア系が多い。いつもながら、人力車のにーちゃんには関心しますよ、って別に僕に関心してもらっても仕方ないんですが。
 さておき、観光名所にありがちな光景として、記念写真というものがあるわけですが、いつも思うんだけども、なにかしら名所と呼ばれるような建造物なんかをバックに自分の写真を撮ることの意味がよくわからなかったり。いや、別に、撮りたい人は撮ってもらっても構わないわけですし、そんな、人のことに口を出したりとか、そういうんじゃないんですけども、ただ、僕はそういう写真が欲しいっていうふうには思わないんだよなあ、と。少なくとも、自分の思い出としての記録にはならんですねえ。
 自分を含む人物を撮ることに否定的なのではなくて、観光地で自分の姿をわざわざ(それこそ場合によっては、通りすがりの他人に撮影を頼んだりするわけで)写真におさめる必要があるのかな、と。自分の記憶というよりは、人に見せるための記録といいますか、そういう感じ。だって、自分が撮った写真は、自分が写っていなくても、それはまぎれもなく自分が撮った写真なんだから、その画面に自分がいるいないに関わらず、その写真を見ることで、自分がそこにいたという記憶は簡単に蘇ってくると思うのですよ。それこそ、他人に対しての「こんなところにいったのよ」的な証拠でない限りは。
 って、まあ、たかだか20数年の人生を送ったに過ぎない上に、そういう記録を残し出して、まだ1〜2年程度だからそういうことがいえるのかもしれないんですけどねえ。もっともっと記録自体が膨大になってくると、曖昧になってくるのかもしれません。といっても、それ自体、別に、その写真に自分が写っているかどうかは関係ないけど。いやいや、これは、写真に自分が入る必要がない、という理由にはなってるけど、入ってはいけない、という理由じゃないな。。。だから・・・
 そうそう、大事なことなんですが、そもそも、その風景に、例えば自分が入っていることで、なにかしら、その風景そのものの本質的な部分が損なわれているような気がしてしまうんですよ。多分。名にしろ、背景そのものはもとからあるものかもしれないし、そこを通り過ぎていく人々も別に仕組まれたものじゃないんだけども、その中に立ってカメラのほうを向く自分がいたとしたら、それはただの作り物になってしまうから。自分が下手くそに作り上げた風景になってしまうから。それが嫌なんでしょうね。(もちろん、自分や人物メインの写真とかなら、構わないんでしょう。そういう意味で)
 最近、書きながら、結論がまとまってないことが多いような気分。読み直してみると、たしかによくわからん構造になってしまってる。でも、なおせなくて、ね。なんだか部分修復は不可能で、現状維持か、破棄、しかないような感じなんで、現状維持をいつも選択しているわけです。ご了承くださいな。
 昨日に引き続き、今日の新開封珈琲はコロンビアのエメラルドマウンテンでした。昨日のとあわせて、しばらくはこの2種類で。

ゴミだしと自宅で作業

 たしか、夏を過ぎたころだったと思うのですが、ゴミの回収日が変更になりました。それ自体はたいした問題ではなかったのですけれども、おそらく回収車の都合やらなにやらで、回収の時間も変わったんですよね。今までは、「ゴミは8時までに出しましょう」「前の晩から出すのはやめましょう」といった張り紙がしてありまして、特に後者はカラスとかネコとかによるゴミあさりの被害のことを考えて、ということだと思うんですが、まあ、近所のみなさんおおむねちゃんとそういった道徳的ルールに従っていたようで、僕も当然その通りに、と。とはいえ、毎朝8時起床の僕にとっては、これがいつも結構ぎりぎりだったみたいで、回収車は9時までには来ているようだったので、朝起きてから、学校に向けて家を出るまでの時間のあいだに一度は家を出てゴミを出しにいかねばならない、といったそういう状況だったのです。ややめんどい。
 しかし、それが、回収日が変更になると同時に、状況が変わってしまいました。気がつけば、登校時間の9時やら9時過ぎになっても、普通にゴミ回収場所にはゴミの山が存在していまして、まあ、僕的には学校に行くときに一緒にゴミを持ってでればいいし、それだと、ゴミを出し忘れることもなくなって非常に大助かりだったんですよ。ただ、そこにはちょっとした落とし穴がありまして、っていうか、回収時刻がちょっとくらい遅めになるのはいいとは思うんですが、12時過ぎまで、ゴミの山が普通に存在しっぱなしっていうのはどうなんでしょう?午前中ずっと、そこにはゴミ山があったりするわけで、カラスとかネコとかに荒らされないように、という先程の後者の張り紙はかなり意味を失ってるような・・・いやいや、だいたい、ゴミの回収って、夜間か、そうでなくても、朝っていうのが定番だと思うんですけどね。昼過ぎっていうのはどうか、と。だいたい臭う。ただでさえ臭うのに、ずっとそこにおかれていると、さぞかし目の前の家の人は困ってるだろうな、とかちょっと人事だけども気になってしまったり。いいんですかね>役所さん
 以前から何度か「研究は家には持ち帰らない」ということを書いていたと思いつつも、そういや「そもそも学校に行かない」というのもありなんだ、とか思ったり。いやいや、詳しくいいますとですね、研究をプレゼンする機会がだんだん多くなってきたりしてまして、そうすると、プレゼン用の資料を作ったりするわけですが、これがまた、なぜか、あれだけたくさんパソコンはあるというのに、共用のWindows機は1台しかないのですよ。うちの研究室には。(当然、Macなんて、僕が個人所有しているだけ)なんで、例のメジャーなパワーポイントトかいうソフトを使って資料を作成しようとすると、その1台のマシンをなかば順番待ちのようにして使うこともあったりするわけで、だったら家で作ったほうが速いな、って。そういうわけです。家のMacには入ってるんで。というかMacとWinじゃ同じソフトなのに、なんでこんなに操作性が違うのか教えてください。どっちがいいとかそういうわけじゃなくて、どっちかに慣れてしまうと、もう片方を使うときに同じソフトなはずなのに全然違うもののように感じてしまうんですけど・・・ま、いいけど。 ただ、家でのパソコン操作する場合、今までは炬燵に入りながらっていうのが無理だったんで、ちょっとだけそれにあわせて模様替え。といっても、ディスプレイと、キーボード・マウスだけを炬燵に移動させました。背後にあるパソコン本体から警告音がするときはちょっと違和感ありですが、そのうち慣れることでしょう。(今日は、ワイヤレスの必要性を強く感じましたねえ)
 ちょっと、HP全体的にフォントの設定なんかをいじってみました。が、違いに気づくのはMacで、かつOSXを使っている人だけだと思います。ま、そういうこともあります。
 今日の新開封珈琲はガラパゴス産のサンクリストバルでした。