第九

 年末に合わせて、ということなのか、先日発売されましたサイモン・ラトル指揮ウィーンフィルによる、ベートーヴェン・交響曲第9番「合唱」のCDを購入しました。いわゆる「第九」っていうやつですね。(このCDについては「奏子」にて)
 さて、いいことなのかどうなのかわからないところもありますが、日本人は年末になると「第九」を聴く、というのがいわば、かなり広く習慣となっているようなところがあります。別、対してクラシックに興味がない人でも、年末になると、第九の演奏会に行ってみたり、そういう具合で。ま、それがすっかり染みついてしまっているものだから、例えば夏の演奏会で、プログラムに「第九」があると、妙な違和感を感じてしまうんですよね。
 さて、この「第九」。この愛称はもちろんこの曲が交響曲第9番であるところからきているわけですが、そんなこといっても、交響曲第9番というのはたくさんあるのですよ。たいがい、僕らは、曲を指す時に、「作曲家の略称」+「曲番号」であらわすことが多いんですが、そういう意味では、この場合は、普通なら「ベト9」か「べー9」ということ(2種類あるのは地域などによる)になるんです。で、9番というだけなら、マーラーだって、ショスタコだって、ブルックナーだって、ドヴォルジャークだって、シューベルトだってあるわけですし、果ては、モーツァルトとか、ハイドンにも交響曲第9番というのは存在するんですよね。なのにこの「第九」というのは、ほとんど固有名詞的に、いわゆるベートーヴェンの「合唱」をさすことになってます。というか、今ネットの国語辞典で調べて見ましたけど、「第九:ベートーベンの交響曲第九番ニ短調の通称。」となってるし。
 さあ、これはなんなんでしょうね。なにがここまでこの曲を、番号で固有名詞化という状態にまで至らしめたのか。(だって、別に副題の「合唱」でも十分通じるんですよね)ま、いくつか理由はあると思うんですよ。例えば、その副題にもなっているように合唱がついたシンフォニーであり、しかもその歌詞が、なんといいますか希望に満ちあふれているとか、そういう感じで。別にそういう意味では、「復活」でもいいような気もするけども、これはやっぱり一般的に演奏されたりする分には編成がでかすぎる。普通のオケの編成(つまり、編成上はたいていのオケで演奏可能)で、華々しい合唱もつくけど合唱だけがメインという感じでもなく、曲の構成も比較的取っ掛かりやすくて、メロディは親しみやすくおぼえやすい。もし、そういう条件を考えてみるとすれば、確かにこの曲になるような気はしますが、まあ、別にそうやって選んで、「じゃあ、今からこれをメジャーにしよう」とかそういう取り決めゴトがあったわけじゃないと思うんですけどね。さすがに。とはいっても、誰かが最初に「第九」という呼び方を初めて、それが広がってしまったんでしょうね。・・・しかしここの文章むちゃくちゃですな。すいません。
 「第九」の時期がやってくるなあと思うと同時に、街中はクリスマスっぽくなってきてるし、もう年末ですね、と実感しますね。そうそう今日の七十二候は「北風木の葉を払う」そのまんまです。

チェリ狂なんで

 ここに、セルジュ・チェリビダッケという名の指揮者がいます。というか、いました。まあ、ちょっとだけ、クラシックの世界に、深めに足を突っ込んだ人なら名前くらいは聞いたことがあると思いますし、僕のサイトではよく名前の挙がる人です。多分。というか、一番好きな指揮者なんですけどもね。
 さて、好きなんで、たくさんCDとか持っているわけなんですが、まあ聴いたことのある人ならわかると思いますが、純粋に聴衆として楽しむ分にはなんの問題もないけれども、自分がその曲を実際に演奏しようとすると、ほとんどなんの参考にもならないのですよ。いやいや、たまに僕のまわりの人に勘違いをしているように思われる人がいるのですが、僕はチェリの演奏は好きだけども、チェリのように演奏したいとは思っていないのです。というか、まあしたいと思っても無理なんですが。
 というわけで、なにかしら、演奏しようとする曲が出てきた時に、チェリの録音を聴いてもほとんど参考にならない、ということはわかっていただけたとしまして、そうした場合にいろいろと困ることが多々起こるわけです。例えば、ここにブラームスの交響曲第4番という曲があります。僕は、この曲の録音を4種類持ってます。持っているんですが、全てチェリの演奏です。普段はそれでもなんの不都合もないんです。ただ、そこで、その曲を演奏する、となった場合には、これらの演奏はあまり参考にはなりません。だって、こんなふうに指揮する指揮者なんてまず滅多にいるもんじゃないし・・・ここで、「あまり」というのは、チェリの演奏した年代によっては一般的な演奏(だと僕が思っている)に近いようなものもありますので。(ま、少なくとも、晩年のMPOとの演奏は一般的ではないでしょうねえ)
 こんなことはよくあることです。メジャーな曲だとしても、さあ練習するぞ、とその前に参考にCDを聴いてみようとCD棚を探してみると、実はチェリの演奏しか持っていなかったり、とか。で、まあ、そうやって、結局ある程度普通の演奏の入ったCDも買うことになる場合が多いので量的には倍になっていくんですよねえ・・・さて、このブラ4はどうするかなあ・・・と。
 あ、ここに書いてある話が意味不明だった人は、一度、聴いてみることをお薦めしますよ。まあ、メジャーなとこで、チャイコの5番とかなあ。
 また急に冬モード。週末はいつも穏やかな気候なんで、週末になったらストーブを出そう、という目論見はいつも忘れ去られたまま・・・なんとかなるか。

傘袋について

 久しぶりの雨かもしれません。雨が降っていると、当然、建物間の移動は傘を差して、という状態になるわけですが、まあそうするとだいたいにおいて、お店系の建物の入り口には、ぬれた傘をそのまま建物内に持ち込まれないように、と傘から水滴が落ちないようにするためのビニール袋(「傘袋」とします)がおいてあるものです。 しかし、なんといいますか、この存在はなんとも環境には優しくない気がしてならないわけですが、そもそもの発端を考えてみることにしましょう。まず第一に、傘をそのままの状態で建物の中に持ち込んではいけないわけですが、たとえば、家とかですと、これは傘立てに傘をたてかけることで、そもそも傘そのものを(それがどういう状態であるにせよ)建物の中に持ち込まなくてすむ、ということになってます。ただ、不特定多数の人が出入りする空間になりますと、他人の傘を故意に、あるいは間違って、持っていってしまう可能性もあるわけで、そうなりますと、当の傘の持ち主としてはそれは大変困ってしまうので、たとえ傘立てがあっても傘を持ち込んでしまうようになってしまうわけですよね。そこで、場所によっては、傘立てに鍵なんかがついているものを置いてある場所もあるわけですが、これはこれで、管理は面倒だし、利用する側としても鍵をかけたり持ち歩いたりする(ほんとにわずかな)手間を惜しんでしまうためか、あるいはやっぱり自分の傘は常に自分で携帯したいという気持ちがあるために結局のところあまり意味をなしているようには思われません。そこで登場するのがこの傘袋です。利用する側としては傘を傘袋にいれる作業はちょっとは面倒であると思うんですけどね。でも、傘の保持に関する安全性だけは抜群でしょう。多分。ただ、そこに大量の使用済み袋がたまることをのぞけば。
 今日、僕は、食堂と図書館、それに2カ所の購買部をまわったので、計4袋を使用したことになります。もちろん、そのどれもが、誰かの使用済みを再利用した(あるいは、自分で自分の使用済み傘袋を持ち歩いた)わけなのですが、よくよく見ていると、そうやって誰かの使用済みを再利用しているような人って、あまりいないような・・・ざざっと2〜3割か、それよりもっと少ないのかもしれません。ということは、あの使用済み袋入れにある傘袋達は、その多くがわずか数分〜数十分程度、役に立っただけで、その使命を全うせざるを得なかったと言うことになるのでしょうか。う〜む。やっぱりこれはよくないよねえ・・・あれがないと確かに、困るといえば結構困るでしょう。あとは、みんなの意識の問題なんですけどねえ。
 と、ここまで書いて思った。もしかしたら、というか当然でしょうが、あの場ではなくとも、あの使用済み傘袋自体はちゃんとリサイクルのサイクル内に入っているんでしょうね。だいたい使用済み袋入れに、そのほかのゴミなんかを入れるような非社会的なヒトっていないだろうから、そういう意味では、あの中身は100%ビニール袋なわけです。とすれば、リサイクルへの回収も楽ですね。とはいえ、やっぱり、その本格的なリサイクルに入る前(それはそれでそれなりに費用がかかってしまう)にも、もっともっと利用するべき(こっちはタダだから)なんだろうな、って思いますけど。

料理の話

 比較的料理をするほうです。多分。ここにも何度も書いてますけども。料理という行為自体は、モノを食べる、ことへのそのための単なる手段というわけではなくて、その行為自体がある意味目的みたいなものですから。といっても、いつでもそういうふうに思えるわけじゃないんで、そういう時は適当にすますんですけどね。
 まあ、さておいても、一人暮らしの料理というのはなにかと気楽なもんです。少々の失敗は気にならない、つまみ食いなんかもご自由に、とかね。今朝も、最近頻繁に大量生産するパンケーキを焼いていたんですが、もちろん、お腹も減っているわけだから、全部やいてしまってから、最後に食べる、とか、途中で中断する、とかそういう面倒なことはせずに、食べながら焼く、という方法をとるわけです。コンロの前に立ちながら、焼き上がったのをそのまま口にもって行く。こういうところが気楽ですよね。
 さて、今日の晩は、前回の冬に挑戦しようとして結局しないままだった、粕汁。いや、挑戦っていっても、全然たいしたことじゃなくて、単に酒粕を買う機会がなかっただけなんですが。しかし、こういう類いの汁物は、豚汁とかもそうですが、ほんとに寒くて凍えそうな時に食べるのは一番だという気はするんですが、ここ数日はそれに反してちょっと穏やかで、ま、それでもいいか、と作ってみたものの、でも、やっぱり冬模様な日々には変わりないから、じつにおいしくていい感じ。今日のは酒粕のみでしたけども、明日はこの残りにちょっと味噌でも入れてみますかね、と。
 よくよく考えてみると、多分この粕汁って、初めて食べたのが京都にきてからではなかろうか、とか。(違ったら申し訳ありませぬ)日本のお酒を飲む文化のないいとー家においては少なくとも、酒粕だけで作った上に、さらに日本酒を入れて、なんていう粕汁は飲まんよなあ、と。(もらった高級純米吟醸もあっさり料理酒になるくらいだから)ま、どうでもいいか。

 大学祭も今日終わりをむかえたようで、それに加えてこの連休で、なんと家の近辺の人込みがすごかったことでしょう。それもようやく収束してくれるかな。もう12月になろうとしているし、観光シーズンもそろそろおしまい。(今日は、行く先行く先、人があふれてました)

おいしい珈琲を求めて

 毎週、というわけでもないけれど、だいたい毎週、週末のお休みの時には、ぶらっと喫茶店に行くようにしてます。日頃、前を通ったりしていて気になるようなお店をピックアップしておいて。もちろんお目当ては珈琲(あるいは紅茶)だから、お店選びにも一応こだわりがあったりします。例えば、・小川コーヒー(関西にある大手のコーヒー会社)関連のお店は絶対にやめる
・定食やらがおいてある店もやめる
とかそういう感じで。その店のオリジナリティがちゃんと存在するような、そんな珈琲を飲みたいですからね。そういう意味では、そのオリジナリティをちゃんと明示してあるところには行きやすいです。どんな豆を使ってるか(種類やら焙煎の方法やら)、とか、どういう淹れ方をしているか、とか。もちろん、そこにおいしい軽食がついてくるのは非常に嬉しいことですが、こちらはあくまでもおまけだから。あ、でも、紅茶目当ての時は、お茶菓子がちゃんとしたところでなければ駄目ですね。スコーンは必須。だけども、まあ、ケーキとかでもいいとは思いますが。(とはいえ、スコーンがなかったら、多分行かないけど)
 今日もそんな感じで、前から目をつけていたお店に行こうと思いまして、自転車をこいでおりましたら、ちょっと考え事なんかをしているうちに、いつの間にやら通り過ぎてしまったらしく、う〜む、引き返すべきか、どうしよう、と迷っていると、今まで気がつかなかった別のお店を発見。上記の条件はちゃんと満たしてましたし、おいしそうだったから、急遽、というかまあ行き当たりばったりにそのお店に入りました。
 いや、かなり正解でしたけどね。おいしい珈琲でした。ただ、今後の教訓に、と思ったこと。食事には刺激のあるものは避けましょう。せっかく珈琲が出てきても、口の中に刺激が残っていて、最初の一口がかなりもったいないことが判明。以後、気を付けないと。
 珈琲ついでに、最近、陶器のドリッパーを買いました。今まで、プラスチック製だったんですが、やっぱり陶器ですよね。熱の伝導性も、保温性も全然違うから。ただ、今愛用の珈琲カップは口が狭く、ドリッパーがぎりぎりはまるか?というくらいなために、気を付けていないと珈琲が横から漏れたりします。これにはかなり困ってます。う〜む。
 飲み物ついでにもう一つ。この間買ったウィスキーがなくなったんで、今日別のを買ってきたんですが、やっぱり、なくなる前に買いに行くべきだったな、と。じゃないと、味の比較もできんしなあ・・・これも今後の教訓に。

小雪

 久しぶりにちょっとだけ暦のお話。今日は「小雪」。「こゆき」ではなくて「しょうせつ」です。読んで字の如く?、雪もちらほらと降り始めてしまうような、そんな感じで、本格的な冬の到来ということだそうで。でも、今日は、特に昼間は結構暖かかったような。いい日和でした。とはいっても、もう、まわりの草花たちはすっかり冬模様に変わり始めてきまして、紅葉もどんどん散ってます。どんどん。しかし、観光客の足はとだえることがないようで、ちょうど明日も祝日だから、ということもあってか、たくさん団体さんを見かけました。
 ちなみに、七十二候の方はといいますと、「虹かくれて見えず」という感じで、太陽の光が弱くなってしまうせいで、虹が見られなくなるとか、そういうことらしく、ようは、やっぱり冬ですか。そろそろ本格的に冬支度もしないと行けないんでしょうね。ストーブまだ出してなかったし。。。(ま、このストーブを買ったのは確か、今年の1月ごろだったから、昨年末は炬燵のみで過ごしたはずだし、そういう意味では大丈夫なはずだけど)

 気がつけば、11月もあっという間に過ぎ去らんというところまできてるし、ああ、年賀状か・・・なんて思ったりすることも多くなってきました。今年は出してなかったし、今回はちゃんと作りたいとは思えども、どうなりますことやら・・・せっかく、プリンタもあるしねえ。
 いやいや、ということは、つまり、修論の締め切りもどんどん近づいていってるってことか・・・う〜む。だいたい、来月はQ大での研究会で講演する予定だし、年賀状とか言っている場合ではありませんな。といいつつも、作るんだろうけども・・・多分。
 さてさて、この週末はいかが過ごしましょうかねえ。まだ、あんまり計画がたってないなあ。

公序良俗

 今日からなにやら大学祭みたいなものが開催されているようで、キャンパス内のいろんなところにいろんなお店が出来上がっているようでした。まだ、実際の開店時間よりちょっと早い時間帯に、まあちょうど店の準備をしているような時に、そのあたりを通り過ぎて、普通に図書館に向かっておりました。お祭り自体に特に興味もありませんし。。。(知り合いが店を出してるとか、そういうこともないんでね)
 すると、視界の片隅に、こんな看板が入ってきました。「女装喫茶」・・・う。。。こいつはまずいな。。。しかしながら、そんなことも、一瞬のうちに意識の中から消えうせていったのです。いやいや、消えていくはずだったのですよ。目の前から、彼らがやってこなければ。そう、まんま、その喫茶店のメンバーであろう集団が目の前からやって来たのです。うぅ・・・見ないように、見ないように、目を合わせないように、と僕はこそこそっとその横を通り過ぎていきます。なにしろ、かなり刺激が強い。打ちのめされてしまうほどにきつい、そういうオーラを発している集団だったのです。あまりのことに、そのことの詳細はここにはとても書けません。それほどまでに、おぞましいものがそこに・・・
 まあ、そんなこともありつつ、しかし、なにごとも無かったかのように、図書館にたどり着いて、目的の本をてに、再び同じ道を帰ってきたのですが、つまるところ、同じ道を戻っているわけなので、僕自身、結構あっさりと、先程の強い刺激を忘れかけていたためにあまり気づいていなかったけども、同じ集団に再び遭遇する確率はかなり高かったのです。そして、遭遇した。しかも、多分さっきの連中とは若干メンバーが違っている気がする・・・って、いったいどれだけの連中がそのテの格好してんねん!と、心の中で軽く突っ込み。
 で、再び、彼らの横を通り過ぎていく時に、こんな会話を耳にしました。「なあ、誰かに買い出しにいってもらわんと、、、さすがにこの格好では外にでられん・・・」・・・その前に、キャンパス内でさえも、その格好でうろつくのはやめてくださいな。ほんと、頼みますから・・・

大レンブラント展

 いつものごとく朝一で・・・って時間配分間違って早く着き過ぎた。開館のざっと30分前に到着。まあ、これが結果的によかったのかどうかは不明。どっちにしても、後ろから来る大勢の人々に追い越されながらのんびり観るわけだから。そんな感じで、ちょっと冷たい風の中で、待つこと30分弱。ようやく開場。どどっと、人が流れ込む。といっても、まあ100人も並んでなかったと思いますけどね。(先頭だったから、よくわからんです)
 よくよく考えてみると、最近観てるのって、近代・現代の絵ばかりだったから、このくらいの時代の絵を見るのは久しぶりかもしれませんね。会場はいつものように、やや薄暗く、そして、解説の時は若干小さく、そのせいで、多くのお客さん達は、なぜだか絵そのものよりも、解説を読むのにえらく神経を使っていたようで、絵の前に人だかりが出来ている時も、なぜだかみんなの視線はその横の解説に釘付けだったりして、そういう光景を後ろから見ているのは、なんとも妙な気分でした。
 美術展における不思議な現象。あれだけ館内に人がいるのにも関わらず、ふっと、1枚の絵を僕1人で占領している時間が出てきます。それはどんなに人だかりのできるような有名な絵であろうと、その場でじぃーっとたちつくして、ぼぉーっと絵と対話をしている時に、ふと、目の前から人影が消えてしまうのですよ。気がつくとその絵の周りには僕しかいなかったり。渋滞の発生・消滅のお話とは違うんですが、これもまた、同じような類いの現象なのでしょうね。嬉しいことだけど。
 そうそう、開場前に並んで待っていて目にしたもの。といっても、普通の注意書きの書いてある看板でしたが、「ペットの持ち込みはご遠慮ください」とのこと。「持ち込み」?・・・国立博物館は、ペットをモノ扱いするということなんですか?ま、考え方はいろいろとあるでしょうけども、それはちょっと配慮が足りないんじゃあ・・・
 ま、そんな感じで。しかし、「夜警」が観たかったな。でも、まあ、あの「デリラ」の目つきは忘れられません。あの目の奥に、いったいなにを思っていたのでしょう?
 夜は、演奏会も行ってきました。それについては「奏子」にて。

 にしても、明日から、大学祭らしくて、大学周りが結構大変なことになっています。あ〜めんど。

教官出張中・・・

 と書くと、なんだか、すごくだらけている(学校に行っていないとか、遊び回っているとか)ような、そんな印象を与えるのかもしれませんけども、そんなことは決してないのです。多分。毎日いつも通りに研究室に行ってますし、プログラムもがしがし走らせてます。今も一生懸命計算して、データファイルを大量生産してくれていることでしょう。
 じゃ、なにが違うかっていいますと、気分的な問題か。不定期に、昼過ぎ頃に、突然部屋にやって来て、「なんか出た?」というイベントが、決して起こらないと思うと、無理に研究室に居座る必要もないかな、とか、そういうふうに思ってしまうわけです。(ちなみに、いつもは、そういうイベントが起こり得るから、イベントが起こった時にちゃんと研究室にいて、そのイベントに対応できるよう、そういう心積もりでいるわけです)
 そういう意味では、時間を使う効率はよりよいのかも。例えば、今のように、1つの条件下でのデータ処理に2時間くらいプログラムで、しかも、10〜20件の条件にわけて計算するような場合に、ぼけーっと、研究室にいても仕方ないんですよね。だらだら論文読んだり、本を読んだり・・・そこら辺は、あまり生産的な活動をしているような気がしない。なんで、今日とかは、すぱっと用を済ませたら、退室、という感じで。ま、それもありですね、と。
 ぶらっと、紅葉風景を写真に納めたりもしてました。まだ公開しておりませんが、予定では、明日もややぶらっとするつもりなんで、それとあわせて、という感じにしようかな、と思ってます。ま、お楽しみに。京の秋、ということで。 
 薄雲がかかっていたので、のぼりたての満月はひどく神秘的な様相でした。今年も、満月と巡り合えるのはあと1回ですね。そう思うと、この1年ももう終わりなのか、、、と。

レコードプレーヤー復活?

 もともと中古のプレーヤーでしたし、もとからある意味気まぐれ的な調子の善し悪しだったんですが、先月くらいに再生しようとしたのを最後に、どうやら結構本格的に調子が悪くなっておりまして、それ以来あまりいじっておりませんでした。調子が悪いといっても、再生上にはなんの問題もなく、フルオートプレーヤーなだけに、レコードの溝に沿って針が移動していく部分が機械制御になっておりまして、この部分のモーターと駆動部の連結がうまく行かないことがあるわけなのです。ま、つまり、原因ははっきりしておりまして、ある程度の応急処置ならなんとか出来ないことも無かったわけなのですが、なにしろ、いちいち裏面のボードをはずさないと行けないのが、なんとなく面倒で・・・(なにしろ、その先月の時は、その応急処置をいったんしたのちに、また調子が悪くなってしまったので、なおさら)
 と、そうも言っていられないので、久しぶりにいじってみることにしました。とはいっても、これがなかなか今までのようにはいかなくて・・・今までの反省も生かして、開腹処置をしたあとには、できる限り閉じないまま、いつでも気軽に内部をいじれるようにしておくことにしました。(ぶっちゃけ、今は、「できる限り」というか、そのまんま開いたまんまなんですが)
 でも、その苦労あってか(ざっと1時間くらい格闘した?)今は結構快調に動いております。久しぶりに聴きましたよ、ホロヴィッツのショパンリサイタルとか、いろいろ・・・今までの不調のためになんとなしに中古レコードを探そうという意気込みも下火のままだったんですが、またちょっと気を付けておきましょうかね。

 昨日も書いてましたが、どうやら今日あたりからぼちぼち流星群も見られるとか、そういう話のようですが、あまりの月の輝きに、普通の星すら見られない状況で、どうやって流星群が見られるのだろうか、などと思ってしまう次第です。