エピソード2

 というわけで、早速いってきました。朝6時に起きて、小雨の中、7時半の上演に間に合うように家を出ました。7時前に映画館に着きましたが、その時点でざっと100人くらいいたでしょうか、まあ、400~500くらいのキャパの映画館だったので、全然問題なしでした。最終的には、200~300人くらいは来てたのかな、と。みなさん朝早くからご苦労様です。
 あまり話すとネタばれになってしまうんですが、まあ、なんていうか、アナキンの恋物語はどうでもよくて、「お、どんどんダースベイダーっぽくなっていく」とかそういう感じで見てました。最近いわゆるエピソード4~6というのは見てない(特に4と5は)ので、どういう感じでつながっていくのかっていうのは微妙に記憶の片隅をあさらないと駄目ですね。パンフとかに人物関係図とか載ってて、ああなるほどっていうのはたくさんありましたが、しかしなかなか複雑な人間関係で。師弟関係が結構ごちゃごちゃって感じです。
 そうそう、やっぱCGの効果はすばらしい。前作(えっと3年前くらいでしたっけ)よりさらに技術が上がっていると思われるので、そこはなかなかのものでした。なにしろ、あのヨーダが戦うんですからね。あれはすごかった。あまり時間としてはなかったですが、やっぱりジェダイ同士の戦闘が一番の見せ所でしょう。
 ま、みなさんも是非どうぞ。この夏の映画って事で。来週は「猫の恩返し」ですね。これも朝一かな、ってまずローソンに前売券を引き取りにいかないと。
 映画を観に行ったあと、恒例になってきた献血にもいってきました。ちょうど今月は献血月間なんで、まあ、時間さえあればいこうかなと。さらに、今回でちょうど10回目を迎えたので、記念品を別にもらいました。ガラス製のお猪口ですかね。これでお酒を飲めということか。しかし、飲むお酒ないなあ・・・ビールや発泡酒すら今はストックがありません。最近はほんと、飲みたくなる時多いんで、そろそろ買っておかないと、ですね。なにしろ、今日なんか、不快指数80%(70だったか?)越えたとか、そんな話らしいし。
 明日もまた蒸し暑いのかあ、、、と思うとちょっとおっくう。

日本語の歌

 昨日の続き、というか補足。フォローか?しかし、暑いな。
 もちろん日本語の歌も聴きますし、好きですよ。この場合は、詩もちゃんと聴きます。言葉としてのメッセージをちゃんと受け取らないと。そういう意味でも、聴き取り不可能な歌は駄目ですが。
 ようするにこういうことですね。外国語の、つまり、言葉の意味のわからない歌というのは、その歌詞自体のメッセージがどうこうというわけじゃなくて、単に曲として聴いている、ということでしょう。声という個性的で多様な音のでる楽器を使った曲として。で、言葉の意味がわかる場合は、その言葉をちゃんと消化するわけです。単に曲としての歌、という場合は、意味のわからない方がいいな、とそういうことですかね。
 ところで、今日、自転車の鍵を落としました。しかも目の前で、排水溝に落ちていった・・・あ~あ。まだ一応スペアがあるわけですが、つまり、今度落としたら、もうおしまい。気を付けなければいけませんね。しっかし、どうして、ああいう時って、ほんとにその瞬間はずいぶんと長く感じるんですかね。「あ、落ちた・・・これって、このまま排水溝に落ちるんじゃないかな・・・って、ほんとに落ちたし」というのを、たった、鍵が地上50cmくらいのところから落ちるまでの間に、順序だって考えてるんですからねえ。不思議なもんだ。感心してる場合じゃないけど。
 ちょうど、昼食のため、ちょっと大学から出たところに停めただけだったので、そのまま、家に一回戻って、スペアをとってくるという、なんとも無駄な移動をしてしまいました。ふう。以後気を付けないと。

外国語の歌

 が好きなんですよ。歌というわけで、別にいわゆるポピュラー系の曲でなくても、ジャズでも、民族音楽でも、クラシックでもいいんですが(ロックとかの激しいのはちょっと違うかな)、ようは歌詞が外国語の歌がいいというか、そういう感じ。「おまえは、聴いて歌詞がわかるのか?」って?いや、もちろん全然わかりません。むしろ、そのわからないところがいいんです。わからないからいいんです、といいますか。たしかに、歌って、言葉にメッセージが載っているわけだから、その言葉の意味がわかってなんぼのものなのかもしれませんが、そういう意味では、言葉の意味がわからない場合は、なにを頼りに歌を聴くのでしょう?僕は、単に、そのメロディーだとか、ハーモニーだとか、そういうので歌を感じます。単に音楽としてその歌を聴く時に、時には言葉の意味がわからないほうが、音を生で吸収できているような、そんな気分になるんですよ。そういうわけで、言葉の意味のわからない、外国の歌が好きだったり。たとえ、対訳があっても、それは目で読むもので、体で聴くもんじゃないし。
 と、いきなりこんな話になったのはといいますと、ちょっと時間はさかのぼって、まだ僕が福岡にいた頃、特に大学生活後半は車で移動していることも結構あって、その時はラジオを聴いていたんです。で、ずーーーっと気になっていた曲があって、それは、DJの話では韓国の女性の歌なんですが、なにしろ題名も、歌手の名前も、なんていっているのかいまいち聞き取れず。当時結構流れていたにもかかわらず、結局わからないままでした。(いや、歌はしっかりと染みついたんですが、CDとか欲しいなって思った時に、探しようがなかったというか・・・)
 で、ひょんなところから、最近、またその歌手に巡り合いまして、名前も当時聴いていた曲の名前もわかりました。(若干聞き間違えていた模様。そりゃたしかに見つからないわけだ)んでもって、最近出た、いわゆるベスト盤を早速注文し、今日届いたというわけです。
 彼女の名はLee-tzsche(リーチェ)といいます。多分ご存知の方も多いでしょうね。代表曲は、おそらく僕がずっと気になっていたこの曲「オギヨディオラ」(この2つの名前をどう聞き違えていたのかはいいとして)こういうジャンル分けはいやなんですが、いわゆるところの「癒し系」の音楽らしいですが、まあ、そればっかりじゃ全然ないです。たしかにこの「オギヨディオラ」はそうだけど。別に澄んだ綺麗な歌声というんじゃないけれど、でもこのちょうどいい高さの響きがいい感じです。
 あ、買ったのは、今年になってでたベスト盤「Asian Breeze」です。英語やら、韓国語です、多分。バンドの使ってる楽器もアジア系のが多いので、そういう意味でも、いつも聴いているようなのとはちょっと違う。かなりお気に入り。早速mp3にしてiPodで持ち歩こう。

涼風

 台風は全然関係なくて、朝起きたら、雨もほとんど降ってなくて(夜のうちには結構降ってたみたいだけど)、でも風だけは若干影響を受けているのか、涼しい風が吹き込んできます。昨日も結構涼しい夜でしたが、今日はさらにですね。冷房器具全くなしでもちょっと肌寒いほどに。
 今日はそんなわけで、なんの滞りもなく研究室へ向かい、集中講義の最後の日程をこなしてきました。システム論といいますか、計算機科学の世界の話なので、はっきりいって僕にはほとんど予備知識がありません。一般の人よりはちょっとだけ、話がわかるかな?という程度のものだったんですが、まあ、この世界では有名な(なにしろ僕でも知ってる)先生だったので、1つの話題として聞いていました。他人はもちろんそれ専門の修士1回生のみなさん。というかむしろ、そこの研究室のために集中講義をしているのに対して、僕がたった1人で乗り込んだという感じですね。
 しかし、今日の最後の1時間の間だけは、ちょっと僕の方に話が傾いてました。そういやあ、なんでこの先生を知っているかっていうと、カオス関連の本も書いているからなんですが、こういうカオス系の話、といいますか、そういう感じの話が最後にやって来たわけです。僕の方に傾いてきたっていうか、逆に言えば他の人はちゃんとわかっていたのかな?と思いつつ・・・ま、なんにせよ、出席だけの単位なので、とにかく、無事終了&取得ですね。
 これで、たしか、あと2つくらい集中講義が後期にでもあるんだと思いますが、それで「講義」と名のつくものはすべて終わりですね。(といっても、あと2つは、自分の分野なので、講義というよりはセミナー感覚ですが)
 うん、ちょっと寒いかもですね。寝る時は気を付けないと、風邪をひくぞ。というか、窓閉めますか。

台風6号

 がやって来てますねえ。どうなるんですかねえ。明日は本州直撃ですか?うむうむ。。。
 いつもだったら、まあ、のんびり家で台風が過ぎていくのを過ごすとか、そういうことにするんでしょうけども、なんか知らんが、明日は集中講義の最終日だ。しかも10時から休憩挟んでの15時まで。今見た台風情報によれば、もろに直撃中じゃないですか?どうなるんだろう?というか、講師の先生は無事に京都までやってこれるのだろうか?(一応大阪からだから、なんとかなるのか?今日中にもう来てるとか、そういうことかな)というわけで、なんだか微妙な感じです。
 とりあえず、今は雨は降ってます。台風のせいというわけでもないけど、若干風も強いかも。これは気のせいか。どっちにしても、雨が降って、風があるので、部屋には冷ための空気が入って来て、それはそれで過ごしやすい。もっと風が強くなると、窓開けてられないから、蒸すんでしょうが。
 集中講義の有無も微妙だけど、せっかく今日、ベースのウルフキラーが届いた(Bass参照)から、早く試してみたいのに、外に出られなくなるのはもっと微妙。う~ん、どうなるのかな・・・
 明日、朝起きた時にどうなってるか、ってことですね。まあ、今夜は気にせず寝るしかないけど。

「百年の愚行」

 「自然保護」という言葉には若干の抵抗感があります。「保護」なんていうのが、なんだかちょっとえらそうだからとか、人間に自然を保護する資格なんてあるのか(そういえば、誰だったか「人間は自然を破壊するためにこの世に生み出されたものだ」とか言ってたなあ)とか、そういうところからきているものなんでしょうけど、まあそのあたりはいいとして。
 世間ではよく「環境にやさしい」とかそういう言葉がよくも悪くも氾濫しているんですが、どっちかって言うと、家庭まわりの小規模なものが多いですね。もちろん、そういうところから、身の回りから、そういう意識を持って行くことは大事なんですけども、まあ、なんていうか、結局汚いところには目を向けてないだけというか、そういう感じ。だいたいそうですよね。僕もそうだけど。汚いところにはあまりかかわりたくなかったり、できれば気にしないでいたいな、とか、誰かがいつかやってくれるかな、とか、そういうエゴ的なことを無意識のうちに感じて生活しているような。
 だから、というわけじゃないですけど、ちょっと勢い的なところもあったんでしょうが、買ってみました「百年の愚行」。これじゃよくわからんですね。単なる写真集です。ここ百年間(といっても20世紀)の写真が100枚載ってる写真集です。ようは、上述のようないわゆる僕ら(僕だけかもしれないけど)が普段気にしないことにしておこうと、目を背けているような、そんなことについての写真が載っているわけです。たくさん。森林伐採や、汚れた海、開発の被害に遭った動物達、といった人間が汚した人間以外の自然にはじまり、戦争や飢餓といった人間が自らを犯した末路(といってもまだ終わっちゃいない)に至るまで、がつらつらと載ってます。ちょっと、思わず目を背けてしまうものもある。
 これを見たからって、どうなるってわけじゃない。安直に、「さあ、自分にできることを、できるところから!」なんていうものには結びついたりはしないわけですが、でも、これは1つの記録。そして警告。これはたった100年間(実際写真的には50~60年間ですが)のうちに、こんなに多くのことがなされてきたという記録。この飛躍的に発展する社会においては、これから数十年のうちにでも、この100年間の何倍ものことをしていってしまうという警告。
 なにかするかもしれない、なにもしないかもしれない、なにもできないかもしれない、といろんな想いの交錯する中で、1つ言えることは、ちゃんと見ていかないといかないな、と。もう目をそらすことなんてできないし、そもそも今現在、目をそらしたところで見たいものだけを見ることなんでできるんだろうか、と。この本を開くことが、小さくも、自分への警告。かな。
 さて、http://www.ThinktheEarth.net/jp
 こういった活動をしているNPOですね。まあ、一度行ってみるのもいいかもしれません。

七夕らしい

 朝起きて、Yahoo!ニュースをみていたら、昨日「エピソード2」の先行レイトショーがあっていたことが発覚。今ごろ知るなよ!>自分
 ぐやじい(兄上行ったらしいし)~~この思いを胸に秘め今度の土曜まで我慢です。

 で、一応七夕ってことなんですが、毎年この時期になると、こういう台詞を耳にします。「今年の七夕も曇ですかねえ・・・なかなか晴れた七夕ってないですよね」そりゃそうだ。梅雨の終わり時に七夕なんだから。晴れることの方が少ないのは当り前。僕のつたない記憶と記録によれば、1998年は晴れたらしい。その時は月も上弦くらいで月が明るすぎて(だから記録が残ってる)ので、結局星は全然見えなかったけど。
 さて、暦という文化を大切にしようというそういう動きは結構あったりするんですが、なにしろ、旧暦での日付をそのまま新暦に持ってきているわけだから、全く説得力がない。7月7日っていったって、旧暦の7月7日が七夕なんであって、新暦の7月7日では決してない。そういうわけだから、旧暦の7月7日はたいがい新暦の8月(ちなみに今年だったら8月15日)にやってきまして、そして晴れるんですよね。。。
 その数字(日付)だけを見て、本質にはあまり気を使われていない。節句とか(3月3日も5月5日も)全部旧暦の日付をそのまま新暦に持ってきただけ。だというのに、他の季節の暦(立春とか春分とか)はちゃんと天文との関連(太陽と月の位置関係)で決まっているから、いわば旧暦のまんま。そんなごちゃまぜが、よりいっそう、暦に対する態度をいい加減なものにしているんじゃないですか?なんかねえ、ちょっとしっくり来ないですよねえ。
 そうそう、なにしろ今日は「小暑」で「七夕」なんですよ。「小暑」はちゃんとした旧暦からの流れを汲んだ天文的に決められた暦(二十四節気)、で「七夕」は旧暦の日付をそのまま新暦に持ってきただけ。こんな変な共存が起こっちゃう。
 まあ、でもとりあえず、晴れてるみたい(月も今は下弦を過ぎてほとんど影響ない)ですし。それはそれで世間的にはよかったんだな、ということにしておきましょう。。。といっても、あまり星見えんなあ・・・

府立図書館

 こっちにきてから2年目にして、やっと公共の図書館なるものに行ってみました。府立ってことは、結構大がかりなものなんだろうな、と思っていたけれど、行ってみるとそうでもなかったみたい。まあ、全部を見て回ったわけじゃないけども、ざっと見た感じで、広さもたいしたことがなかった。。。
 とはいえども、やっぱり本に囲まれると、気持ちがいいもんです。気持ちがいいというか、わくわくしますねえ。「あ、これ読んでみたい」とか「次はこれを借りようかなあ」とかそういう感じで、どんどん気持ちは膨らむ。まあ、でも、別に活字中毒とかそういうわけじゃ全然ないんで(だとしたら、今までの1年間耐えられなかったはずだし)そこまで大げさなものじゃないんですが、でも、これからちょくちょく通ってみよかっな、と思いました。なにしろ涼しいしねえ。
 さて、一応お目当ての、というか、必要としていた類いの本は入手できたので、後は適当に検索でもしてみようかな、と思って、検索用のパソコンの前に腰を下ろします。キーボードをコツコツとうってると、、、なんとまあ、出てくる文字は全然違うし、っていうかこいつは「かな入力」か。そりゃそうか。万人が「ローマ字入力」できるはずないしなあ、と思いつつ、でも僕が「かな入力」をしていたのって、せいぜい10才くらいまでだから、もう全然キー配列とか覚えてないですよ、と、ちょっとあせりつつも、なんともまあ久しぶりにキーボードをにらみつつも文字を打たせていただきましたよ。しかし、あれはやっぱり、タッチパネルとか(つまり、50音順にちゃんと仮名が並んでるようなもの)のほうが、より一般的には使いやすいと思いますよ>図書館の方
 今日は、閲覧室(つまり本だけ)しか見てないから、次回はもうちょっと内部を探検してみましょうかねえ。

○上

 あれはいつ頃からだったろうか、と書き初めてみたものの、だいたい見当はついていて、ここ数年のことだったような気がする今日この頃。元来、伊藤家では、少なくとも僕が生まれた頃には、親・兄弟を呼ぶとき、「おとーさん」「おかーさん」「おにーちゃん」というのが原則であった。僕自身もその原則に則って20年の月日が流れ、なのに、今は「父上」「母上」「兄上」になってます。単に文字の上だけでこう書いているのではなくて、面と向かってもこう呼んでいるのである。(たまに昔の呼び方になっているときもあるみたいだが)なんでこうなったかといえば、多分、家族以外の他人に対して自分の家族のことをいうときに、「父親」とか「母親」という風に丁寧にいうように心がけていたら、そのままそれが呼び名に変わってしまったものと思われる。
 それはさておき、こう書いていて、思うのは、なぜ、家族間においていわば役職的な呼び名が存在しているのだろう。役職的というのは、たとえば「社長」とか「先生」とかそういうもののことだが、このような形式ばったものが、家族という親密な間柄にまで適用されているのはなぜ?しかも、ほとんどにおいて、年上に対してのみ適用されていて、自分の息子のことを「息子」とよぶようなそんな親をみたことがない。単に知らないだけかもしれないけど、この親兄弟に対して呼び名で呼ぶことって多分結構世界共通。国の文化・宗教にかかわらず、その言語固有の呼び名が存在し、呼び名でお互いを呼ぶようになっている(多分)。なんで?人類の発展上これは不可欠だったの?謎は深まるばかりかな。
 親は子を名前(固有名詞)で呼び、子は親を呼び名(普通名詞)で呼ぶ。確かに、子が親を呼ぶ場合に、呼び名であっても、間違えることはない(親は子に対して1人だから)から問題はないかもしれないけども、それは子と親が1対1の場合のみ。もし何家族もが集まっているとすれば(こういう状況は非常によくある場合ですが)、固有名詞でない呼び名は混乱を招く(人込みの中で「おとーさん」という声に幾人もの父親が振り向く光景は容易に想像できるかと)だけ。たいてい、役職的な呼び名には、接頭的にその人の名前を付けて区別できるようになっている(「○○先生」など)ものなのですが、なぜか、自分の親に対する呼び名にだけはそれが適用されない。(兄弟姉妹や、他人の親に対してなら適用されてますね)これは上述のように完全に1対1でのみ使用されることを前提とした呼び名であることを示唆していることになっている、とそう考えるのは普通だと思うんですが、しかしながら、現実はそうではなく、この親の呼び名そのものがTPOに関係なく本人の名前を含むことなく使われているわけです。変だなあ。不便なはずなんですけどね。実際不便。とはいえ、僕も別に両親を本人の名前で呼ぶことはないけれど。。。
 なにがいったいそうさせたんでしょうか?ほんと人類の進化の上で、言語的な発達の上で、いったいなにがこういう不都合を今まで継続させる力となっているのでしょう?誰か知っていたら教えてください。

ソフトウェア開発?

 「開発」っていうほどのもんじゃないですね。せいぜい、「製作」くらいか。まあ、Macな、それもAquaな人にしか関係ないことですが、1月半くらい前から、ソフトウェアプログラミングなんかに凝ってみたりして、今もちょっと、いろいろソースをいじったりしているような、そんな感じです。
 あくまで自分のため、といいつつも、やっぱり、世間に公開していることも考えて、それなりにみなさんの役に立てば、なんていう甘いことを思いつつも、いじってるわけですが、プログラムに関しては当然アマチュア、しかもちゃんとした(数値計算以外の)プログラムを組むようになったのは、これが初めて、なんで、まあ、しょぼいプログラムを世間に公開していることになってるんでしょうけど、それでも、ちょっとソフト開発者?モドキとして生意気にも思うのは、絶対フリーだな、とかそういうことです。これはあくまでアマチュアとしての趣味なんだから、といいますか、どうせ来年からプロとしての道を歩むことになるんで、今のうちにアマチュアとしての楽しみを楽しんでおこうと思うんです。(もちろん、プロになれば、なったで、そこにはプロの楽しみがあると思っているわけですが)プロになったら、自分の作るものにはちゃんと責任があるわけで、だからこそ、それに対しての代償が支払われていることになります。そういう意味で、今だけは、フリーのソフトを公開して、責任なんてものを完全に無視してみたり、そういうことができるんで、このスタンスで行こう、というわけですね。
 1年後くらいに今のソースを見て、「なんて稚拙な・・・」ってきっと思うんだろうな、とかそういう話もあるんですが、できるだけ今のうちに、100%趣味といいきれる今のうちに、こういうプログラミングの楽しみ方もしっかり味わっておきたいなあ、とかそんなことを考えながらも、日々精進。にしても、文献が英語ばっかりなのはさすがにつらいけど・・・(というか、今日の日本語文章はいつにもまして変。申し訳ない)