急性活字中毒

 活字中毒なんていう言葉あるとすれば(というか、あると思っているけど)今の僕の状態はまさに急性の活字中毒だ。それは突然やってきた。なんでだかわからなけれども。何度か書いたような気はするけれど、少なくとも高校時代までは、かなりの量の本を読んでいた。それも専門書ではない、普通の小説を。ミステリー・ファンタジー・SFといった具合に。純文にはほとんど手を出さなかったように思う。でも、なんでだか、大学に入ったころからそれはぱったりと止んでしまって、思い出したかのように、たまに、ほんとにごくたまに読むだけになってしまった。
 なのに、ここ数日の状況はそれまでから一変している。その前兆は暫らく前からあった。そう、江戸川乱歩を「もう飽きた」と思うまで読んでいた(全30巻弱の全集のうち10冊くらいを読んだ)ころから。ためしに、ここ1週間くらいに読んだ作品を思い出してみよう。はっきりいって、作家は二人だけ。・栗本薫:仮面舞踏会(伊集院大介の帰還)/僕らの時代/僕らの気持ち
・村上春樹:海辺のカフカ/風の歌を聴け/1973年のピンボール/その他短編諸々10作品程度冊数にすれば、ざっと7~8冊分くらい。1日1冊のペースである。別に1日に1冊読もうと思っているわけではなくて、読み終えたときに、隣に別の本があれば、すぐにそれを手にしている。研究室で研究をし、楽器の練習もし、ソフトのバグも直すし、HPも更新する。そんな合間はすべて本を読んでいる。電車での移動中も居眠りすることなく。これを中毒といわずして、なんといおう。

 これがいつまで続くのか、予想はつかない。といえばちょっと嘘で、多分、終着点は見えている。栗本薫の伊集院大介シリーズを全部読み、村上春樹の小説を思いつく限り読む。それと、彼ら二人の作品に飽きるのと、どっちが先か、という問題だろうな、と思う。と、簡単に書くけど、これはご存知のように結構な量です。伊集院大介って言っても、天狼星だけで10冊くらいあったように記憶しているし、ねじまき鳥をもう1回読むのはかなり骨が折れるような気がする。でも、今は、ただ、読みたいという衝動にすべてを任せているだけ・・・月並みにいうと、面白くてやめられない、というところですかね。

 ちなみに今日は、大阪の方に出張サポート中。パソコンのメモリ増設やらで。

再会

 お久しぶりですね。1年ぶりですか。といっても、去年は10月の頭だったから、ちょっと違うけど。(といっても10日くらいしか違わないけど)
 いやいや、そんなことはどうでもよくて、今日貴女にあえてよかったです。なにが違うの?っていわれれば、もちろん貴女はなんの変わりもない。何年間も、何億年間も、ほとんどなにも変わることなく、貴女はそこにいつづけてきたんだろうし、多分これからもずっとそうなんでしょう。だということは、つまりは、違うのは、貴女を見上げている僕の方。(そして、同じように貴女を見上げている人々みんな)勝手に、今日が特別な日だと思ってしまっているんですけども、でも、それはあながち変なことじゃない。
 あいにく、というか、少なくとも今は、薄い雲のスクリーンがかかっているから、ぼやけてしまった貴女しか見られないけれども、それでも、たまに切れ間から輝く光を降り注ぎになる時は、僕はただ立ち尽くすだけ。
 円でなければいつでもそんなに違わないけども、円であるのと、そうでないのはかなりの差がある。もちろん円でないのも好きですが、円であるその一時はほんとに幸せです。その一時の時間を共有できたことが。

 静かに、ネットラジオからはJazz調(あるいは南米調)の曲が延々と流れていて、本を片手に読みながら、ちょこっとお酒も口に付けてみたり。そうしながらも、ちらちらと窓の外から、空を見上げてしまいます。できることなら、貴女が地平線から見えなくなるまで、窓から空を見ていたい、と思いつつも。多分それは叶わないような気がしますが。
 

 というところで、お月見第一段(独りで静かにお月見編)終了みたいです。今から、第二段がはじまるみたいなんで、ちょっと出かけて来ますか。

彼岸

 市販のカレンダーを見ると今日は「彼岸」と書いてある。正確にいえば、今日は「彼岸の入り」になるけれど。「彼岸の入り」というふうに始まりの日があるっていうことは、終わりの日があるかっていうと、ちゃんとあって、それは「彼岸の明け」というらしい。それはちなみに、9月26日になります。「彼岸」っていうのは「土用」とかと同じで、期間をあらわしてまして、そこが、たとえば「秋分」や「満月」のように瞬間をあらわしているものとは違う。(ちなみに、「秋分」は太陽の黄径が180°になった瞬間、「満月」は太陽と月の黄径差が180°になった瞬間をさす)まあ、そこら辺はうまくできていて、だから、暦では「秋分の日」というふうに、「秋分」の瞬間を含む日という呼び方をしているわけです。多分。
 さて、では「彼岸」はどういう決まりになっていますかといいますと、「彼岸の入り」から「彼岸の明け」までの7日間のことを「彼岸」と呼ぶようです。で、「彼岸の入り」はどうやって決まっているかといえば、「秋分」(「春分」でもいい)を含む日を真ん中においての前後3日間を「彼岸」といいます。なんで合計7日間。今年の「秋分の日」は23日なので、その前3日の今日から、後3日の26日までが「彼岸」ということになります。いやあ、勉強になりますねえ。。。って、役にも立たない暦に関する雑学でした。

 さて、今日はさらに「小望月」です。ようするに旧暦で14日の月のことですけども。旧暦の1月はだいたい30日なんですが、月の満ち欠けは30日よりちょっとだけ短い周期でまわっているので、日付と月齢が一致しないことはしばしばです。今年は、明日の「中秋の名月」の夜(つまり旧暦8月15日の夜)と「満月」の瞬間を含む夜、というのは同じなんですが、去年は一日ずれてまして、ま、そのせいで2日間、月を楽しませていただきましたけど。
 今日の月は薄雲のおかげでまわりに虹を従えてます。そんな感じで、明日が楽しみですね。

独り言

 ちょっと遅くなってしまったけど、ほんとは、普段これを書いているような時間に、パソコンの前にいた。でも、書く気にはならなかった。別に書くことがなかったわけじゃなくて。書きたいことがあったがために。
 ここ数日、今日も含めて、お気づきの人もいるかもしれないけど、とりあえず「独り言」の文体はなにやら微妙に変なことになっている模様。理由は多分簡単。本を読んでいるから。村上春樹の最新作「海辺のカフカ」を。そして、先ほど読み終えた。だから、読み終わるまでは、「独り言」を書く気にはならなかった。
 感想?愚問かな。でもいうなれば、『ことばで説明しても正しく伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい』ということだろうか。(といいつつも文章にはする。これは一つの記録・記憶だから。webでつながっているみんなにとってというわけではなくて、自分にとっての)あれがなんだったのか、といえば、いいようのない気持ちになるし、今の僕を的確に描写するなら、飽和(あるいは空虚)、だとでもいうのだろうか。そして、これを読むのが、今でよかった、とそれが正直な感想。いいことなのか、悪いことなのかわからないけど、飽和(あるいは空虚)な自分から、普段の自分に戻ってくるのに、最近はそれほど時間がかからなくなったから。明日、朝、目が覚めれば、普通の生活が待っているし、余韻に浸っている時間はそんなにない。それは、多分、今の僕にとってはいいこと。だといい。
 「強さ」について、むかしよく考えたなあ、とかちょっと物思いにふけったり。なんだったか、『強い自分自身を自分の手で葬ることのできる強さ』そんな「強さ」ないからこうやって生きているだ、と。
 また、しばらく時間をおいて、何度でも読み返すことでしょう。もっと一つ一つの出来事を、一人一人の人間を、ゆっくり噛みしめなければならないな、って。

 芸術の秋なんていって、実は、今日は演奏会を聴きに行ったりもしているけど、それはまた別のお話。電車から降りて階段を上り地上に出てきた時、自転車を止めて神社の坂道をあるいて登る時、目の前にはやっぱり月が浮かんでいて、明後日をいっそう待ち遠しくさせる。それが、今日の全て。

献血日記

 手帳を見ると、あれからもう2週間が経っていたみたいだった。そんなわけで、いったん研究室で用事を済ませたあと、自転車にまたがった。陽もまだ完全にあがりきっているわけじゃなかったし、といっても日の出からは4~5時間が経過していたけど、去年体験したものとはまた違うの秋の気配を感じていたから、久しぶりに川岸を走ることにした。川岸には影が少ない。少なくとも自転車で普通に走れるような場所に影は無い。だから、夏のあいだはとてもそこを通る気にはなれなかった。たとえ、信号もなければ、道路の段差もなかったとしても。

 久しぶりに通る川岸は、とても心地よくて、遊佐未森を聴きながら、僕の足はほんとになんの抵抗もなくペダルをこぐ。摩擦ゼロの慣性の運動をしているかのように。そういやあ、未森は春から秋にかけてはぴったりだけど、ビーチボーイズは夏だけだったけど、冬になったらなにを聴いたらいいんだろう?静かにバロックとか、ショパンでも聴いているのがいいのかな?なんてことを考えていたら、あっという間に目的地に着いていた。
 今日は、毎度おなじみの絆創膏に、あぶら取り紙、そしてタオルがついてきた。フェイスタオルかなって思っていたけど、実はハンドタオルだった。しかも2枚。僕がいつも使っているもの(ちなみにハンカチは持ち歩かない主義。いつもハンドタオル)より一回り小さくて結構重宝しそう。そうそう、あと、4回ごとにもらえる図書券もついてきた。多分これはマンガになる。(普通の本なら大学生協にて現金で1割引だし)
 古本屋さんによろうとか、中古レコードをあさろうとか、電気屋さんにいって市場調査をしてみようとか、そんな計画もあったりしたけども、特になにがあったわけでもなく、単なる気分で、それらの予定は全て未定に終わった。で、気分で、帰りは普通に歩道を走って帰った。やっぱり、歩行者やら車やらの間をすり抜けていくのはあんまりいいもんじゃないな、と。

 ちなみに、今日は、七十二候「つばめ去る」

予感

 別に、東に向かって歩いていたっていう、そういうつもりだったわけじゃない。ただ単に前を向いて歩いていただけ。でも、そこに貴女はいた。昨晩から降った雨はようやくあがった様子で、とはいえ、頭上は一面グレイに覆われていたのに。たまたま東の空だけが、ちょっとよどんだ蒼色が藍色の雲の間からのぞいていて、そして、そこに貴女はいた。
 どきっ。こんなに白いことってあったっけ?この白はいったいなに?一瞬立ち止まって、そしてまた一歩踏み出す。視線はずっと貴女にとらえられたまま。カメラあったらな、、、そうは思ったけれども、デジタルの記録ではなくて、記憶の記録に残すのもいいもんだ。いつだったか、以前も同じ場所で見ることが出来た貴女の様子が蘇ってくる。連想記憶。こんなことって、デジタルの世界ではまだ実現されていないから。そう、あの時は貴女の下を飛行機が飛び去っていったんですよね。細い雲をひいて。
 今日はそのまばゆいほどの白さが僕を圧倒。まだ陽は沈んでいないから、輝いているっていうふうに感じることなんて、ないと思っていたけど、でも、貴女は輝いていた。その光を感じた気がした。自分の体を通り抜けていく光を。
 週末はほんとに素晴らしい貴女に会えそうな気がする。そんな予感がした。

三連休

 三日休んで、四日学校に行き、そしてまた三日休み。なんとまあいい日々が続くのでしょう。こんな連休に家でごろごろするのもありかもしれないですけども、まあ、なんとなしにそれはもったいない気がして、ぶらぶらと出歩いて、連休第一段終了です。
 とはいえ、秋ですし、そして連休、でもって京都なもんだから、街中の人込み、車の込み具合は半端じゃない。バスは平気で普段の倍以上の時間がかかるし、「なんでこんなに混んでるんだろうね~」なんていう観光客に「そりゃ、あんたらのせいや!」と思わず突っ込みを入れたくなるし。ま、それも京都の風物詩みたいなもんだと思いますけどね。

 かくいう私もちょこっと琵琶湖の方に行ってまして、稲刈りをしている田んぼの横道をのんびり歩きながら、そういやあもう新米の季節だし秋ってやつなんだな、、、街中ではこういう光景とは前々は慣れているけれど、なんてちょこっと物思いにふけってみたり。
 来週は僕もやや観光でもしようか、とか思っていますがどうなりますことやら。というか、この三連休は曇り空ばかりだったけど、今度の連休は、というか土曜日は晴れて欲しいものです。なにがなんでも。是非とも。なぜって、旧暦8月15日の中秋の名月だし。そして、ちゃんと同じ日に満月もかぶってますから。

大作家

 は、いろいろと大変なんだなあ、とつくづく思ったりすることがある。特に大衆向けの作品を書いていた人は。過去形ですけども、この場合に、僕の頭の中にあるのはもうこの世にはいない二人の人物だから。江戸川乱歩、と、手塚治虫。全く関係ない二人だけども、誰もが名前くらいは聞いたことがある、という点では一致しているかと。(乱歩の方は最近の若い人たちはしらないかもね)
 なんで、いきなりこういう話かっていうと、たいがい、僕らがまず、こういう人たちの作品に接する場合は、非常に有名な名作とされたものであることが多い。というか、それ以外にはないでしょう。なんだけど、ちょっと、好みに合ったりして、深く掘り下げていって、とにかく無名の作品でもいいから、なんでも読んで見ようって思いだすと、これがまた、いろんな作品に出会ってしまう。そう、いわゆる駄作に。
 読み終わったあとの「なんだったんだ?」感はほんとになんともいえない。これがあの大作家の作品か、と。でも、解説なんかを読んで見ると、なんとなしに理解できるような気がしなくもない。つまり、そういう駄作みたいなものはほぼ全てが「書かされた」作品なのだ。有名であるがゆえに、出版社の頼みを断ることも出来ずに、多数の読者のために、十分な準備も出来ないままに、とりあえず書き始めてみる。そういう作品が結構あったりする。当然、そんな感じで書き始めているもんだから、ちぐはぐなストーリー展開は、もうなんともいえない。素人の投稿作品でも、こんなのってないんじゃないの?というものもあったり。
 乱歩の場合なんて、たくさん読んでいると、もう犯人の意外性はちっとも意外じゃなくなってきたりする。トリックもちっとも不思議じゃなくて、「あ、またこの使い回しか・・・」みたいな感じで。
 そうはいうものの、読んでみるまでは、自分にとっての名作かどうかなんてわからないから、やっぱり、無名の作品を読み続けることは終わらないんだろうな。
と、大事なことを忘れていました。15日(日)の「独り言」はお休みです。パソコンの使える環境におりませんので。

ぶどうパン

 いきなりですが、問題です。パン屋さんで、ぶどうパン(正確にはレーズン食パン)を買うのはどういう人が多いでしょう?1.ぶどうパンが懐かしいおばちゃん。
2.ただ単にぶどうパンが好きな学生さん。
3.なんとなしに、通りすがりのパン好き。

 さて。。。正解は?てゆーか、僕は単に3.のつもりだったんですけどね、レーズン食パンをカウンターに持っていたら、おいちゃん第一声。「え!ぶどうパン買うの!」おいおい!あんたが作って売ってるんでしょうが!「いやいや、ごめんごめん。そういうイメージやなかったから・・・」って、僕はどういうイメージなん?いやいや、じゃあ、ぶどうパンを買うのはどういうイメージかいな?「おばちゃんが多いんよ。懐かしい、って」・・・あんまり、自分と違うともいえない気分だけども、(というのも、レーズン食パンをそのパン屋ではじめて見た気がして、「お、こういうのもあるんやね~」と手に取ったんで)しかしながら、なんだかなあ。。。というわけで、正解は1.らしい。

 ま、どうでもいいことでした。でも、なんだか、そのやりとりって、不思議と全然嫌な気分にならないし。逆に言えば、僕もいつも食パン買いにきていることを覚えてもらってるんだな、っていう気がしてちょっと嬉しかったり。そんなすがすがしい心地のまま、帰途について、久しぶりに買った豆パンをかじるのでした。こんなパン屋さんが近くにあってラッキーだなあ・・・と。

スーラと新印象派展

 に行って参りました。場所は京都国立近代美術館。朝一で家を出て、現地に着いたのは開館の10分前くらい。だいたい、家から自転車で10分くらいの場所ですし・・・で、開館前にはほとんど人はいなくて、そのまま一番乗りで会場へ入りました。まあ、いつものことながら(といっても最近は以前ほどに長居はしないですが)のんびりとみていたので、だんだん人が多くなってきて、最後のほうは、ちょっとのんびりでもなかったかも。というか、足が疲れてきたし・・・
 思ったこと、というか感じたことを箇条書きみたいに・・・
・やっぱり、音楽でも、絵画でも、19世紀後半(特に印象派)は好きだなあ。
・印象派の場合って製作者のみたものと、観客のみるものは印象が違うんじゃなかろうか、というか、その点を製作者ってどういうふうに考えているんだろう?・「練習中のチェリスト」っていう題名の絵だけども、明らかに弾いているのはコントラバス。こらこら!・圧倒的な光の世界。でもこれって、ちゃんと計算された理論的なものなんですね。びっくり。・光の世界が多いから、太陽の出ているような絵ばかりと思っていたけども、実は夜の絵がかなりいい感じで染みつきました。何度も戻って眺めさせていただきました。・いつものことだけど、一つの特別展示を見終えたあとに、常設展示を見るのは不可能。一応展示室には入ってみたものの、歩いて通り過ぎただけでした。それ以上の絵との対話は精神的にきつかったから。
 こんな感じ。結局滞在時間は1時間半くらいかな。高校生くらいの時に比べれば、以前ほどに、体力も精神力も無くなってきたのでしょうかねえ。
 次回は、週末からはじまる「メトロポリタン美術館展」ですね。